とるころーるの備忘録日記

なんかもうごちゃまぜ

一貫性

 

矛盾というものがとにかく好きで、人間らしさをかたちづくるひとつの要素だと思っている。嫌だと思うのについつい見てしまうとか、死にたいと思っているのに少し残った野菜が勿体無いと思ってしまうとか、やるべきだと思っているのにやれないとか、昨日言っていたことと今日言っていることが180度違うとか。非合理な行動の数々。

 

一貫性が是とされる世界ももちろんあるだろう。科学とか数学とか法律とか。昨日勉強した公式が今日間違ってるなんてことがあったらたまらない。でも、だからといってあらゆる分野において一貫性がうつくしいということでもないし、一貫性を持ち合わせていれば完璧というものでもない。というか、正確には、絶対的に正しく一貫性を貫けたらそれはたしかに完璧そのものだが、絶対的な正しさがひどく難しいものである以上は、一貫性を貫くことは不完全なことが多いのだ。だから、(あらゆる分野において)一貫性を尊ぶのは、ありえないものを夢見て「あれっていいよね」って言っているのと同じことだ。というか、科学も数学も法律も、時代とともに、新たな発見とともに徐々に変わっていく。だからまあ、別にそこにも本当は一貫性なんてない。なくていい。

 

そもそも、絶対的な正しさなんて、たぶんこの多様性の社会ではないのだろうし。あったとしても、それは人間の都合だ。私は中学のとき、犬や猫が動物愛護法で守られ、法を破ったものは罰されるのに、蟻の巣を水攻めにしても(モラルには反するけど)、「ちっちゃいころやったよね〜笑」程度で済まされるのがよくわからなかった。その線引きがわからない。犬や猫を飼っているひとたちは、蟻にも同じだけの愛を捧げるのだろうか?なかにはそういう人もいるかもしれないが、まったく同じと言い切れる人はそう多くないような気もする。結局その線引きは人間との距離の近さに起因するのだろう。別に批判じゃない。博愛主義なんて人間には1000年くらいたぶん早い。

なんなら、人間との距離の近さということで言えば、殺人でさえどうしてやってはいけないのかわからなかった。いや、そりゃ人間界ではやっちゃいけないんだけど、別に人間が滅びようがなんだろうが動物一般にとっては関係ないし。遺族が悲しむからとかそういう感情的な話は、人間がたまたま意思を持つ動物だったから生まれる理由付けに過ぎないし。自然界で共食い禁止なんてルールはあるんだろうか。動物の行動について勉強したことないけど、共食いしたら、食った側は食われた側の親族とか(?)によって罰されたりするのかな。しなさそう。してたとしたら、そこにも「社会」があるんだな。よくわかんないけど、まあ、たぶん、人間社会を維持するために、特別ルールのなかに「殺人を犯してはいけない」という規定を作ったんだろう、という何とも当たり前すぎる結論にたどりついた。たぶん私は馬鹿なのだ。こんな当たり前のことも飲み込めずに14の頃うじうじと考え込んで、普通の結論にたどり着くのだから。あまりにも当たり前すぎて笑ってしまう。

 

話が逸れた。

 

なんの話かというと、一貫性ほど脆いものはないという話。で、なんでそんな話をしてるかというと、最近「一貫性がない人間」がやらかした場合、徹底的に「やらかしてしまう」ために、徹底的に叩かれるなあ、とぼんやり思ったからだ。インターネットの普及、SNSの拡散力の弊害である。

 

インターネットでは扇情的な意見表明はすぐに拡散されてしまう。拡散されたあと、昨日言ってたことは間違ってましたごめんなさい、では済まされないことが多い。事実に関する言明が「実は間違ってました」ではたしかに済まされない。トイレットペーパーがなくなっているだなんて、本当に迷惑だ。事実はちゃんと調べてから発表してほしい。

 

でも、「意見」とか「ローカルルール」とかにも最近厳しいような気がするのだ。それくらい知っとけ、はもちろんそうなんだけど。人間だから知らないことだってあるし、優しく教えて(その場のルール上の)間違いを正すことを、あるいは指摘されて自分が正しさに近づくことを、諦めたくない。

インターネットは簡単に過去の意見まで遡れるから、「○年前にこう言ってましたけど?一貫性がない!」みたいな話はちゃんちゃらおかしい。その数年の間にひとは成長し、反省したり学んだりしながら意見を変える。当たり前だ。一貫性のなさは、言い換えれば、直すことのできる勇気だ。一貫性がなくたって、昨日と言うことが違ったって、たまたま昨日から今日までの間に学び、修正したのだから仕方ない。

 

でもこの、「間違っていたで済まされない」か「済まされる」かの線引きも正直よくわからない。事実誤認を殊更に煽り立てるのは「間違っていたで済まされない」だろうが、あまりに事実を重視するあまり、迅速さが失われては元も子もない、という場面もあるしな…と思うのだ。あるいは、転売は絶対にだめだが、無断転載をしているという人々をよく見るのだ(どっちもだめです)。所詮、その線引きも各々の心のなかの個人的なルールに過ぎないし、曖昧なものなんだよなあ、と、今日も正しさがわからないまま、思考を終える。