とるころーるの備忘録日記

なんかもうごちゃまぜ

進撃・最終回を読む直前の感情の記録

進撃の巨人が明日完結する。明日というかあと4時間くらいで最終話が出る。

 

私は一昨年の無料キャンペーンからのド新規なので追いかけ始めてわずか1年半ほどだ。エレンの首が飛んだところからなので本当につい最近からしか見ていない。

 

人生で初めて特定の「作品ファン」としてのアカウントを作り(趣味アカウントは声優さんファンのものはあるが、もはや雑多アカウントと化していた)、人生で初めて複数の二次創作をつくり、人生で初めて二次創作作品を買ったジャンルである。二次創作を買ったことがなかったんですよ。二次創作に長期ハマった経験がこれまで一度もなかった。

 

このわずか一年半でさえ、追っててつらかった。なんでこの作品にハマってしまったんだろうと思った。
正義だと思っていた自分の考えは、相手からしたら正義ではないかもしれない。人のスタンスのあり方なんて環境に拠るものでしかないのかもしれない。相対的に考えたくてもそれでも守らないといけない仲間のために衝突は免れないのかもしれない。

つらすぎる。あまりにも。

 

途中から自分の生活との兼ね合いもあり、二次創作はほどほどにしてたまに買いつつ、原作のことばかりつぶやくのが増えた。真剣に向き合いたかったので言いたいことはすべて言い、考えたことはだらだらと流した。原作について必死に私が思考した記録は、あとから見返すと「そんな展開にはなりませんよ」と滑稽で哀れなようにも、その時の展開に対して真摯に向き合っているようにも見えて可笑しかった。

 

さらに昨年はマシュマロを設置し、交流の場にした。まあわずかフォロワー50程度(当時)では滅多にこないだろうと思いつつ、たまに感想文が拡散されると徐々にマシュマロ送ってくれる人が増え、いろいろと発見があった。自分では考えたことのないテーマについて考えるきっかけになったり、新たな見解を見せてもらったり、私の足りないところを教えてもらったり、(たとえ悪意のある差別的なマシュマロがきても)(忘れねえからな)設置してよかったと思った。


いつも月末のバックさんの原稿受け取ったツイートが怖かった。月初になるとあと少しだと思い、5日をすぎたころにはもうあと数えるほどだと思った。7日には先月分を読み返してわからん……どうなるんだこれ……と思い直した。

8日は朝からそわそわして、夜には「禊済ませた(風呂に入った意)」ツイートが流れていき、私も風呂に入ってすべてのやるべきことを終わらせ、24時までに心身ともに整えた。その間ずっとTLは高揚感を上回る恐怖と緊張感が漂っていた。
9日0時ピッタリに、「いってきます」というツイートがいくつか流れて、数分間TLは止まり、そのあとは阿鼻叫喚の嵐だった。
最初は「うわあ」とか「無理」とか、「しんどい」「泣いてる」「どうして」という呻きのような、叫びのようなものが流れていき、2周目を読み、徐々に考察ツイートが流れていくのが常だった。気づけば1時だった。時間が剥ぎ取られたのかと思うくらい、その1時間は人生で最も早く過ぎていく1時間だった。

 

筆の早い人はその日のうち、そうでなくても数日中に最新話に沿ったファンアートが流れ、それがまた涙を誘った。息を呑むようなうつくしいものから、最新話の傷を癒やすようなコメディチックなものも流れ、そうした作品にくすりと笑って、傷にかさぶたが少しずつかぶさるのを感じた。
それらの作品というのは、最新話から作家が受け取った衝撃が、絵に、文に、昇華されていた。それは自分の解釈に合うものもあれば合わないものもあったけれど、そんなことは些末なことだった。なぜなら、解釈が違おうがなんだろうが、どれも一様に作者が真摯に作品に向き合ったことを窺わせていたからだ。この作品に向き合ってそれを作品として昇華させている姿勢そのものに泣けた。

 

他のジャンルかどうだか知らないし、私の周りだけかもしれないが、進撃の巨人という作品はその展開に賛否分かれ、激しい議論が交わされる作品だった。作者を盲信する風潮というのがなく、この展開はどうなんだとか、このキャラクターのこの行動はおかしいもしくは理解できるとか、180度違う感想を目にすることは珍しくなかった。〇〇派(地ならし肯定派、否定派とか)という言葉が生まれて派閥ができるほどに考え方が分かれて批判し合うこともあった。誰も何も信じていなかった。作者すら信じていなかった。むしろ作者を最も信じていなかったかもしれない。

 

そうやって意見の分かれるファンたちが一つになれる瞬間があった。それはキャラクターの死である。
そしてそれはこの作品においてはたびたび訪れた。私が読み始めてからのわずか一年半の間でさえ、だ。
そのキャラクターを好きだろうがそうでなかろうが、命がそこで途切れたという事実はファンをひどく動揺させた。涙を流す者もいれば、衝撃のあまり涙が出ない者、実感が湧かず呆然とした者もいた。


しかしそのキャラクターの死でさえ、どうしてここで死ななくてはならなかったのか、このタイミングで死んだ意味はなんだったのかで意見が割れることもあった。私が見ていた限りでは、ファンが一つになれたのは読む前の吐き気のするような緊張感と、読んだあとのうめき声、キャラクターが死を迎えたのを見た直後の呆然とした心地、それくらいだった。

 

考えさせられる主題をテーマにした作品というのは世の中に数え切れぬほどあるが、未完の状態で考えるというのはまた違った醍醐味があった。
週刊誌ではなく月刊誌だからこそ、一ヶ月間たっぷりその時点での展開について議論を交わすのは楽しかった。完結していないからこそ、この先こうなったら今のこの状況も納得できるだとか、納得できないだとか、先々を読者も考えながら読むことができた。

 

一人なら決して気づけなかった考察、解釈、伏線回収を教えてもらえた。もはや私にとって進撃の巨人という作品とは、読む前の張り詰めた緊張感〜阿鼻叫喚〜考察〜ファンアートという一連の流れをも含んだものだった。同じ時間を共有したファンがいなければ、この読書体験は得られなかった。

 


その経験があと少しで一区切りになる。最新話更新前の苦しさも、読んだ直後の衝撃も、味わうのはこれで最後だ。


けれど、最終回を読んでの読解は終わらない。これまで考えることがなかった回はただの一度もなかった。きっと今回も考えることがたくさんある。受ける衝撃は一過性でも、読み直すたびに生じる新たな発見と感動はたぶん永続的だ。この作品が何度読み返しても思わずため息をつくような伝説だと、そういう伝説として完結したと信じたい。まだ終わりたくない。何度でも味わいたい。

 

たしかに完結は大きいことだ。疑いようもなく大きいことだけれども、きっと完結でさえ1つの通過点でしかなく、この作品をどう読んでいくか、そのゴールを決めるのは私たちだと思う。というかそう思わないと完結の衝撃を受け止められないと思う。


まだ、ずっとずっと楽しもう。進撃の巨人は終わらない。ただ、とてつもなく大きな一区切りを迎えるだけだ。

その一区切りの前の禊を今から済ませようと思います。