教養だけではほとんどの人は食っていけないのだから
「ほとんど」と書いたのは、まあ教養を深く深く究めたひとはクイズ王とか教育系youtuberとか身を立てることも可能かなと思ったからだ。
といっても、クイズ王ならばクイズの専門的技術が必要なことはQuizknockが教えてくれたし、youtuberに専門的技術が必要なことはこのyoutuber戦国時代ではもはや自明である。
よって、やはりほとんどの人は教養だけでは食っていけない。
この記事内での教養の定義は「高校卒業までの学習内容+αがある程度身についている」とする。
高校卒業までの学習内容が完璧ならば理論上どんな大学にも入れるわけで、まあ教養一本で身を立てようなどと思わない限り、高校卒業までの学習内容がある程度身についていれば、少なくとも教養がない部類には入らないだろうと思う。
+αというのは芸術面だ。学校で読む本、触れる音楽や美術作品見る映画には限りがある。文学、音楽、美術、映画をはじめとしたメディアコンテンツは学校教育だけでは足りない。
私がこの記事で書きたいのは教養って必要か?という話である。
大前提だが、私は学校で勉強しなくていいなどという話をしているわけではない。
勉強は大事だ。自分の選択肢が広がる。また、学校で勉強しているような内容が文明の下支えになっている。私も「三角関数なんて大人になったら絶対勉強しないだろ~~~~」と泣き言を言いながら試験勉強をした経験はあるし、実際高卒以後いまに至るまで三角関数は使わないで生きている。でも私が使うかどうかなんて関係なくて、私の知らないところで三角関数が使われている場面はいっぱいあるんだろうなという想像力は身に着けた。
それから、私は教養はなくていいと言いたいわけでもない。あるに越したことはない。だれだってそう言うだろう。
でもそもそもなんで、食っていけもしないのに教養って必要なんだろうな。教養があることのメリットってなんだ…ということをずっと考えていた。私がフワフワ考えてたどり着いた結論は以下の通りだ。
①世界の解像度があがる
聖書とかギリシア神話の知識を持って西洋絵画を見るのと見ないのとでは楽しめる度合いが異なる。その隙間を埋めるのが美術館における音声ガイドであり、芸術新潮であり、各種ムック本であり、図録であり、専門書であるわけだが、もともと知識があればそれらがなくてもその絵画がどういう場面を切り取ったのかがわかる。これは楽しい。
②いろんな分野のひとと話が弾む
ある程度の知識をそれぞれの分野において持っているなら、ある分野について詳しい人と話すときに話が広がる。弾む。良好な人間関係を築ける(?)。話してて面白い(interesting)とは思ってもらえるかもしれない。
③エセ科学にひっかからない
これはメチャメチャに大事だ。超大事。しぬほど大事。血液クレンジングだの水素水だのマイナスイオンだのいろいろありましたが、ああいうものにひっかからないのは大事。マジで。水素水みたいな毒にも薬にもならないものならまだしも血液クレンジングとかこれ一つで痩せる系サプリはね…はい…体に悪いので…
③は大事だ。でもこれと密接にかかわる大事なことは以下のことだ。
④馬鹿にされない
これじゃないか??!!?!?!?!?!これだろ!!!!!!!!!!!!!!と思うんですがどうですか?????????
はっきり言って①は自分が好きな分野の知識は好きに集めりゃいいし、②は聞き上手かつ質問上手でさえあればどんな人とも話は弾みます。逆に知識があったって話が下手ならどうしようもない。③のようなことが起こるから馬鹿にされるわけだし、結局問題はこれだろうと思うんですよ。舐められない。馬鹿にされない。
まあ、③についてはリテラシーの問題でもあると思うので(教養があればエセ科学にはひっかからないが、教養がなければ必ず引っかかるものではない。なぜなら調べれば簡単にそれは危ないですよという注意喚起が出てくるからだ)ちょっと以下では脇に置いておきます。いわゆる芸術に造詣が深いとか、教養が必要な風刺やジョークが通じるとかそういうレベルの話をする。
あのですね、なんでこの記事を書き始めたかと言うと、先日検事総長の話題が盛り上がった際「政治なんて知らないくせに乗っかっちゃって」などという意見が結構見られたからだ。歌手だから知らないと思いますがなどというとんでもない発言まで見た。失礼すぎる。
それとこれとがどう関係するか?
つまりねえ、「知っている(側の人間だと自分を思っている)人」は「知らない人」を馬鹿にしたがる、ということです。
知らないことに厳しい、無知を責めるというひとは割といる。そういう人の気が知れない。政治について無知を責める人を見て、何年か前、教養がない人を馬鹿にした知人にモヤついたな~と思いだしたのである。何年か前の怒りでよくこんなブログ書けるよなと思った?わかるなあ。私はその場で発散できないと、かなり根に持つタイプだ。
私は知識があることはまったくもってエライことではないと思っている。例外なく、誰もが、知らない状態から知っている状態に移行している。ということは、誰もがどこかで知識を得たということであり、その「どこか」さえわかれば、どんな人間も同じ知識を手に入れられるということだからだ。
要はある知識を○○というタイトルの本から得た人がいれば、○○を読めば同じように手に入る。所詮、先に得たか後に得たかの違いに過ぎない。
このごろはもう既に「ちょっと先に生まれたからってエライわけじゃない」という意識はしっかり広まっていると思いますが(いわゆる「老害」みたいな語はそれを示すと思う)、なぜちょっと先に知ったことがそんなにエライと思うのか。理解に苦しむ。
知らない人を馬鹿にする人は「そんなことも知らないの?」という言葉をよく使うが、あれはもう本当に…ひどい言葉だ。知らない相手を委縮させ、知っている自分を優位に立たせて何が楽しいんだろう。自分も最初は知らない側だったくせに。
教養を「高校卒業までの学習内容+α」と定義したので、考えられる反論としては、+αはともかくとして、高校卒業までの内容なら自分で勉強できただろ、それをしなかったのは怠慢だ、というものがありそうだ。
そういうひとは何か勘違いをしている。
教養を上記のように定義づけたので、こういう類の教養を持っている人は必然的に学力が高い。学力というのは努力して得るものだと多くの人が思っている。まあある一面に関してはそうだ。もちろん自分の努力がなければ、知ろうとしなければ、問題を解いて定着させなければ、学力は上がらない。
しかしそういうひとは恐らく東大の入学式の上野千鶴子の祝辞(
の意味をまったく理解していない。自身の努力以前に環境が恵まれていることに自覚しろ、そしてここまで頑張ってきたその頑張りを恵まれない人々のために役立てよというのが私の要約ですが、名文なのでぜひ読んでください。
彼女はフェミニストであり、前半の内容からしてもこれは男女の環境差の話をしているのはと当然の話なのだが、そもそも東大にきている時点で東大の女子学生は日本全体の「女性が大学に行くなんて」と言われるような家庭に比べればはるかに恵まれた学習環境にあったことは確かであり、これは環境に恵まれた人にそれを自覚せよと言っているともいえるわけだ。男女かかわりなく。
教養は「知らない」を「知っている」に変える営みを繰り返すことでつくられる。そしてそれは誰にでもできるだろうと(無知を馬鹿にするひとは特に)思いがちだ(確かに私は「どこから知ったか」を知り、同じ道をたどれば同じ知識を得られるといった。これは誰でもできることだ。やろうと思えば)。
しかしそもそもその「知らない」を「知っている」に変えるという、「やろうと思える」学習意欲を育てる環境が全員にあると思ってるのか?ということだ。凄惨な事件の報道をかならず見たことがあるはずなのに。その報道の陰に無数の恵まれぬ子どもたちがいることくらいわかるはずなのに。
休みの日には親が美術館に連れていったり、クラシックのコンサートに連れていったり、本が欲しいと言えば何冊でも買ってくれて、塾に通わせてくれて、ライバルと切磋琢磨し、高等教育を受けさせてくれたりした。そんな人が、「誰だって知ろうと思えば知れるでしょ、学校の内容くらいちゃんとやりなよ」なんてね、言うのは簡単だ。
でも、「学習意欲」が一生の宝物であることに気づかず、誰もが持っているものだと思い、自身の環境の恵まれ方にも気づかないなんて、何のための教養なのかと思う。見識が狭くても教養だけは持っている?そんな教養、無用の長物も甚だしい。
教養がなくても昨日も明日も明後日も生命維持ができる。酸素を吸って二酸化炭素を吐くことに教養は必要ない。「豊かな人生が送れる」? 「豊かな人生」かどうかは本人が決めることだ。私は世界の解像度があがれば楽しいと先ほど言ったが、「世界の解像度があがると楽しい」と思うのは私の価値観だ。解像度なんて別に上げる必要なんてない。上げたいと思う人が上げればいい。無理せず楽しく生きるのがいちばんだ。
残念ながら無知を馬鹿にする人間はたくさんいる。だから、「馬鹿にされないために」教養はあったほうがいい。実に哀しい結論だ。
でも本当は、知っている人間が馬鹿にしない世界があればいいのだ。「そんなことも知らないの?」ではなく「ああ、それはね~」と教えるやさしさを持てたらいい。
私は「それってどういうこと?」と聞かれるのが大好きだ。「とるころーるに聞いてもバカにしないだろう、教えてくれるだろう」という信頼感がたまらなくうれしいからだ。
でも「聞いてくれてありがとう」はおかしい。「知らない」と「知っている」の間に溝があることを前提にした言葉だ。子ども相手なら「ちゃんと聞けてえらいね」はいいだろうが、成人にそのように言うのは馬鹿にしている。絶対に言ってはいけない。確かに「私に」聞いてくれたことはうれしい。でも知らないから聞くのは当たり前のことのはずなのだ、本来。当たり前を当たり前に実行できるひとがとてつもなく尊い。だから私は普通に答える。
そして私もまた、知らないことは知らないと言うことを心掛けている。私は自分に知らないことがたくさんあることを知っている。私は決して「知っている」側の人間ではない。
私が知らない人を馬鹿にしないのは、長々書いてきた以上のことが理由であるとともに、自分も知らないことを馬鹿にされずに聞きたいからだ。お互いの知らないことを、お互いの知っていることで対等に補い合いたいからだ。
知らないことは恥ずかしくない。ありふれた言葉だ。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。よく聞く言葉だ。
でもこんな言い回しが、ことわざがあるのは、それと反することをついつい人間はやってしまうのであり、そうしたことを戒めるためだ。現実はしばしばこうした内容から乖離するからだ。
いつかこの言葉が、あまりにも当たり前すぎて、朽ちて忘れられるような世の中になりますように。