とるころーるの備忘録日記

なんかもうごちゃまぜ

BANANA FISH 最終回を迎えて

 

最初に言っておきますがネタバレです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たったいま、BANANA FISHのアニメ、最終回を見終えた。涙が止まらない。声を限りに叫びたい気持ちと、ひっそりと暗い部屋の隅でシクシク泣きたい気持ちとが混ざり合って、どんな言葉で今の気持ちを表現していいのかわからない。

 

 

今期ハケンアニメだから絶対にみてね!と言われた。漫画をほとんど読んでこなかった私は題名すら知らなかったので、試しに3巻までの無料キャンペーンを一気読みして、面白そうだと思った。まずはアニメを先にみて、好きだったら後から漫画買おう、くらいに思っていた。

 

 

結果、とんでもなかった。

腐女子としては、あ、めっちゃそういう描写じゃん!と思うところもあって、そういう面からも楽しんでいたんだけど、いや、もう、それどころじゃなかったっていうか、、、、

ここまで書いてきて思ったんだけど、私と作品の出会いなぞというどうでもいいところから、今までの自分的にグッときたポイントを逐一話していると最終話までたどり着けないので、とりあえず、とにもかくにも最終話の私の思いの丈を感情のままに綴っていいですか。いいですね。いきます。冷静さなんて知ったものか。

 

 

 

だいたいね、アッシュは最終話で19歳なんだそうです。wikiに書いてあった。ていうことはですよ。20歳になったアッシュが、英二と久々にアメリカで会って「久しぶり」なんて言うことも、30歳のアッシュが「ギズモ?はのどかなところだなあ」と目を細めて英二の隣で景色を見つめることも、40歳のアッシュがビール腹が気になってきた英二に「ちゃんと運動しないからだよ、お兄ちゃん」といたずらっぽく笑うことも、ないんだよ、永遠にないの、、、、、、どうして、、、、、、

 

 

ブランカに向かって自分を手放しに信じてくれるひとがいるから、俺は幸せなんだ、と語るアッシュ、英二のために死ねと言われてすぐに銃口を頭に向けるアッシュ、英二の危機に理性をなくして相手が死んだ後も撃ち続けるアッシュ、、、、、、ねえ、、、、、

 

 

「僕は君とともにある」じゃないんだよ、「僕の魂は君とともにある」んだよ、肉体がなくなっても、魂だけになっても、自分とともにいる、自分のことをそう思ってくれる存在を文字で確認して、死んでいるのに幸せな夢を見ているのね、ってそれほどまでに嬉しかったってことでしょう、、、でも二度と生きては帰らない、そんな、そんな悲しいことありますか?喧嘩して仲直りした図書館でってのがまた、、、

 

 

幸せそうな夢を見ている、そんな風に言われたアッシュの死に顔。アッシュのわずか19年間の人生は、最後は夢みたいに幸せだったんだろうか。そうであってほしい。でも夢みたいに儚かったことだけは確かだ。

 

 

英二がまだ夢から醒めていないの。英二はまだ、アッシュと絶対に会えると信じている。必ず会おうと言ってくれたってシンの優しい言葉を信じているし、アッシュがその後会おうとして走り出して、隙を見せてさらけ出して、そして、、、(絶句)

...そんなことは、英二の知る由もない。そして英二は夢から醒めたとき、きっと慟哭するだろう。自分の魂が共にあると言った相手が、絶対に会えると思っていた相手が、もうこの世に存在しない。死ぬ間際すら見ていない。さよならも言っていない。言う必要がないからだ。なのにどうして?ウワアアアアアアアアンもう無理!!!!!!!!!

 

 

アッシュと英二が共にいたのはたったの2年。わずか2年。17歳から19歳に至るまでの、青年と呼ぶには少し早いような、少年と呼ぶには大人びているような。

 

中学生や高校生のころ、毎日を必死に生きていたから気づかなかった。「制服」という記号が外れて初めて、「青春」という日々はなんて儚かったんだろう、大人たちが「華の女子高校生じゃないの」って決まり文句みたいに言っていたことは本当だったのだ、と思った。そのくらい、17歳から19歳の期間って嘘みたいに短い。

 

 

私はニホンで命を落とすことも、命の危機に瀕することもなく、青春を通り越したので、青春が嘘みたいに短い夢みたいな時間だったと思っているけれど、アッシュにとってはそれが「人生」だったんだ。

あの時俺たち危なかったよなあって酒を飲みながら昔話をする前に死んでしまった。そしてアッシュは19歳の時点で「昔話」をするには、悲惨な「昔」しか持っていない。アッシュと英二の2年間が、「昔」になる日々が、私は、私は、来てほしかったの、、、、、、、、

 

 

 

17歳から19歳というのも絶妙だ。アッシュは素晴らしく頭が良く、強く、みんなを従えて、大人に見える。だけど、朝は弱いし、かぼちゃは嫌いだし、そして誰よりも孤独だ。そんなアッシュが英二に出会った。隙を見せるほどに信じる相手に。

コドモだとか、オトナだとか、そんなことは意外と曖昧で、だれにだって二面性はある。だけど、大人は子どもなところを隠すすべを覚えている、、ように見える。私はそう思っている。

アッシュは、隠すすべを身につけていた。そのことが、大人だということなのか、あるいは隠しているからこそ余計に孤独を深めて、アッシュの心の奥底にある17歳の、等身大の彼が「寂しい」と今もなお叫びつづけているのか、わからない。あるいは両方なのかもしれない。

英二に出会ったアッシュは、誰かを大事にすることを覚えた。誰かを愛する人は強い。誰かを守る人は強い。こういうときのアッシュはすごく大人に見える。だけどじゃれ合っている二人は、「男」というより「男の子」だ。

 

それでも、と私は思う。

もっと英二に思いの丈をすべて話して、悩みもさらけ出したらいいのに。しかしアッシュは英二がその悩みに関わると、英二を苦しませたくない一心で隠す。ままならない。苦しい。しんどい。英二はそのことすらもわかっている。アッシュは自分を苦しませたくないのだと。でも自分のせいだと思うのはやめた、と。すべてをわかって、黙ってアッシュが無事に帰ってくるのを信じるのだ。

 

 

愛だ。愛としか言いようがない。

 

 

こんなことを言うのは興醒めなので言いたくないが、これは恋愛だとか、友愛だとかそういう小さい話じゃない。もっと大きな愛だ。すべてを覆い尽くす愛、相手を信じきる、まるごと愛す。そういう愛の話だ。家族でも友達でも恋人でも、何にも当てはまらない、人と人の、愛の物語だ。

 

 

それなのに。

現実って残酷だ。何度「if」を唱えても何も変わらない。何度「あのときああしていたら」と思っても現実は目の前に聳えている。

あのときラオをきちんと説得できていたら、あのときアッシュがブランカとカリブに行っていたら、あのときシンと空港に向かっていたら、あのとき、あのとき、あのとき、、、いくら唱えたって最後は変わらない。アッシュ・リンクスはその生涯の最後の一ページを閉じた。私はまだ取り残されたままだ。きっとしばらく引きずるんだろう。少年たちの、夢のような時間の、しかし真実の愛の物語を。