とるころーるの備忘録日記

なんかもうごちゃまぜ

進撃・最終回を読んで十日後の感情の記録 ~やや成仏・「逆前田敦子」編~

 

まずはこれを読んでほしい。

 

最新話更新前の苦しさも、読んだ直後の衝撃も、味わうのはこれで最後だ。


けれど、最終回を読んでの読解は終わらない。(中略) 受ける衝撃は一過性でも、読み直すたびに生じる新たな発見と感動はたぶん永続的だ。この作品が何度読み返しても思わずため息をつくような伝説だと、そういう伝説として完結したと信じたい。(中略) 

たしかに完結は大きいことだ。疑いようもなく大きいことだけれども、きっと完結でさえ1つの通過点でしかなく、この作品をどう読んでいくか、そのゴールを決めるのは私たちだと思う。というかそう思わないと完結の衝撃を受け止められないと思う。


まだ、ずっとずっと楽しもう。進撃の巨人は終わらない。ただ、とてつもなく大きな一区切りを迎えるだけだ。

 

 これは進撃の巨人最終話更新4時間前に書いた私の文章である(進撃・最終回を読む直前の感情の記録 - とるころーるの備忘録日記)。

今読み返してみて本当に思うことは次の通り。

 

いや、あ、あ、、あわれ~~~~~~~!!!!!!!!!!!哀れ。本当に哀れ。人によっては伝説として完結したと言えるのかもしれませんし私はほかの人がそう思うことをまったく否定しませんが、私のなかでは伝説として終わりませんでした。お疲れさま!!!!!!!衝撃は確かに受け止められませんでしたいろいろな意味で!!!!!!!!

 

読後すぐの私のツイッターの第一声、「そうですか~~~~~………」ですよ。なんだこの温度。低すぎて凍るわ。

一方私のタイムラインはキラキラタイムラインだった。諌山先生ありがとう!感動した!すばらしい結末だった!こんな大作を綺麗にまとめられてすごい!

 

え~~~~~~~~んどこが?????(泣きながら)私もそう思いながら寝たいのだがどのへんが?????

さすがに私もいったんは「いつもは言いたい放題だけど今回ばかりは……」としり込みするも、口から絞り出して出てきたプラスの見方が「リヴァイさんが生きててよかった!」だけだったので諦めて「すきにリムーブしてください私は言いたいこと言います」と宣言してそれから十日ほどず~~~~~~っと批判していた。

やだよ私だってこんな批判するの。キメツが終盤に向かって愚痴アカウントが増えていったのを対岸の火事とばかりに眺めていたころに戻りたいよ、まさか自分がそうなるとは。

 

いや、ていうか、は?愚痴じゃないから(情緒不安定)。愚痴とかそんなねえ、気に入らねえとかそういうレベルの話をしてるんじゃないんだよ虐殺とか差別とかの話をしているんだよ!!!!!!!!

 

批判については散々(本当に散々)ツイッターで話したので割愛する。伏せった―でまとめた二点のリンクだけ貼っておく。

 

①マイノリティ属性をなくしたエンドについて

@turkey_sngkさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

 

②エレンとは何だったのか

@turkey_sngkさんの伏せ字ツイート | fusetter(ふせったー)

 

 

自分が好きな作品が納得のいかないラストを迎えたとき、ここまで後味が悪いとは思わなかった。そういう傷つけられ方は望んでいない。どれだけそこまですばらしかったとしてもラストがだめならすべてだめだ。

 

私は自由を渇望する少年が仲間のためと言いつつ自分のために社会規範(どころじゃない)を破っていく話を読んでいたが、最終的に彼らの仲間が全員虐殺を必要悪と認識し、誰一人、自分勝手に突き進んだ主人公による「虐殺の恩恵」への居心地の悪さを吐かなかった。

自分勝手な主人公はそれはそれでいい、でもそうか、生き残った君たちにとって虐殺ってただ(英雄にしてくれるという)利益で感謝の対象ってだけなんですね。利益だと思ったんなら踏みつけられたひとへの罪の意識も一緒に背負いなさいよ。利益を受け取る=踏みつける側に(最終的に)立っておきながら(被害者への罪の意識も述べず)共犯関係にならずに、虐殺はエレンが勝手にやったことだから僕らは悪くない、とばかりにエレンありがとうって虫が良すぎて寒気がする。

 

こう、ついつい批判が口から出てきてしまうのだが、もうとにかく酷かったです。酷いラストでした。私は作者を盲信していないし、作品を好きなだけで作者がどうこうというのは特にないのではっきり言う、酷いラストだった(そういえばライヴ配信で、編集担当の人が作者は100の誉め言葉より1の批判に傷つくみたいなナイーヴなこと言っててびっくりした。こういうテーマ出したら褒められるばかりじゃないの当たり前だし、そもそも商業漫画なのに批判しないでくださ~いとでも言いたげなその口ぶりは何なんだ? 人格否定とか誹謗中傷やめてくださいでいいでしょ)。

 

最初の四日はマジで考えることが多すぎて、燃え盛る炎のごとく「何だったんだこの話」と思い続け、どういう物語だったかの落としどころを見つけて以降はマシュマロを閉じて鎮火、しかしやはり残るツッコミどころの多さに思わずぼや騒ぎが起こるもようやく!ここにきて!(たぶん)完全に消火できたと思う!

 

成仏のきっかけはやはり地道な吐きだしですよ。吐き出したのは大きかった。言語化って大事ね。そしてそれに共感してもらったのも大きかった。その節はありがとうございました。

 

そして何より、物語に納得しないってところですよね。「最終話前まではよかったけど、最終話がだめだった」とかじゃなくて(当初そう思ってました)、これだけの大風呂敷を広げて畳まなかったんだから、もう全体としてはだめだろ。と私は思います。

もうそれでいいよ。もちろん細かいところで好きなところはあるけど、進撃の巨人全体としては何だったの……という虚脱感でいっぱいなので、それでも私は進撃の巨人が好きですとはもう言えないな、今はね。だって根幹の部分が畳まれなかったので

(ここまでパラディーマーレでフラットな視点を保ち、ハンジというエレンに相対するキャラまで出しておきながら、彼女の精神を継いでエレンを批判する視点がラストで喪われているってのは、フラットさは消えているし、話を畳まなかったと言っていいと私は思っています)(それ以外にも描写足りな…というところもたくさんあるし)。

 

ここまではよかった……と何とかいいところ探しをするのは私はもうやめる。何とか褒めようとするムーヴは自分が苦しいから降りる。終わりがだめなら全体としてはだめだ。この物語を愛していたときの自分をどうにか否定しないために、あそこは好きだった、あそこまではよかったとぽつぽつ言うことはあっても、それでも全体としてはだめだったことに変わりない。私にとっては、ですよ。

 

 

ところで推しカプがいるけど物語のラストに納得がいかなすぎて成仏ができない皆さんにお教えしたい概念があります。それが「逆前田敦子です。

 

私がすきなカップリングはエレリなんですけど、エレリは原作には(相対的に)ほぼ描かれない(個人の感想です)。BLカプにハマるならいかにもエルリだろうという感じが原作からはする。が!それはそれとしていきなりエレリにトチ狂ったので私はエレリがすきだ。全然問題ない。たのしい~!

この、エレリが好きというのが本当に僥倖ポイントこのうえなかった。というのも、そもそも原作にそんなに描かれていないものを突然好きになっているので(でも私のなかでは完全に「エレリ」なのだ)、原作がどうなろうがまったく関係なくエレリを好きでいられるのである。ちなみに最終回エレミカに関しては唐突すぎて戸惑って終了したのでエレリ解釈にはぜんぜん影響を与えていません。強メンタル。そもそも別にエレミカも特別好きとかはないけど嫌いなわけでは全然ないので私のなかでは共生できる。ハッピーウーマン。

むしろリヴァイが生き残ってくれてよかったな~って思う。エレンはまあどのみち死ぬなり道に縛り付けられるなり、現世でハッピーライフは送れないだろうな~とは思っていたので、エレンが死んだことは覚悟済みでショックとかはなくて、リヴァイが生き残ってくれてよかった。まじで。どっちも死んだら互いのことを語れないので……個人的にはエレリとして百点満点エンドだった(重ねて言うが個人の感想です)。

 

で、前置きが長くなったが、そういう話を先日友達とべらべら吐きだしていたら「逆前田敦子じゃん」という話になった。「私のことは嫌いでもAKBのことは嫌いにならないでください!」という伝説の台詞である。ってかこの発言2011年だって!嘘、あれもう10年前?!!?!そっちのほうがショックだわ。

進撃の巨人は嫌いでも推しカプ(エレリ)のことは嫌いにならない」精神が大事。別にいいんだよAKBが嫌いでも前田敦子が好きでいたってさ。そうすることで今後とも末永く楽しい距離で進撃の巨人にかかわっていられる。

 

私は自分なりに解釈したり考察したり、この物語のストーリーを結構…結構、愛していた。だからつらかったんだ!ストーリーを愛しているのにあのラストでつらくないはずがなかろう。もうこれからはキャラクターだけを愛せばいい。エレンのことはきっと誰かが思い出して話してくれるのだろうし、リヴァイはきっと近所の子供に一見気難しいけど実は面倒見のいい口数の少ないおじさんとして慕われるんだろうなとかもうそんな感じでいいです。

 

だってさ、もうしょうがないよ、編集部からは急かされていたようだしこんなに壮大なストーリーのラストを詰め将棋みたいに描いたってことは描ききれなかった部分もありそうな感じがするし、単行本も待ってはいるけれどそれでも本誌で(本誌を買うくらいには熱心なファンに向けては)あのラストだった事実は変わらないわけだし。全部しょうがなかったんだよ、お疲れさまでした!

 

私だって進撃の巨人を好きでいたいけど仕方がない。は~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~それでもちょっとだけ、ちょびっとだけ単行本に期待していいですか?????????キメツも本誌ラストは酷すぎて怒りが沸いたけど、単行本の加筆で相当受け容れられやすいラストに描かれていたので。どう?

今の私は結構成仏できているんですけど、まだ完全な悟りではなくて6月9日に虚無からの完全成仏か、現世・進撃の巨人ラヴライフに逆戻りかどっちかが決まるんだと思います。哀れだね。徹頭徹尾哀れだけど、私はこれからは逆前田敦子概念を胸に生きていきたい。ぽつぽつまたボヤ騒ぎを起こしていたら悟り切れていなかったのだなと察してください。

 

 

 

 

進撃・最終回を読む直前の感情の記録

進撃の巨人が明日完結する。明日というかあと4時間くらいで最終話が出る。

 

私は一昨年の無料キャンペーンからのド新規なので追いかけ始めてわずか1年半ほどだ。エレンの首が飛んだところからなので本当につい最近からしか見ていない。

 

人生で初めて特定の「作品ファン」としてのアカウントを作り(趣味アカウントは声優さんファンのものはあるが、もはや雑多アカウントと化していた)、人生で初めて複数の二次創作をつくり、人生で初めて二次創作作品を買ったジャンルである。二次創作を買ったことがなかったんですよ。二次創作に長期ハマった経験がこれまで一度もなかった。

 

このわずか一年半でさえ、追っててつらかった。なんでこの作品にハマってしまったんだろうと思った。
正義だと思っていた自分の考えは、相手からしたら正義ではないかもしれない。人のスタンスのあり方なんて環境に拠るものでしかないのかもしれない。相対的に考えたくてもそれでも守らないといけない仲間のために衝突は免れないのかもしれない。

つらすぎる。あまりにも。

 

途中から自分の生活との兼ね合いもあり、二次創作はほどほどにしてたまに買いつつ、原作のことばかりつぶやくのが増えた。真剣に向き合いたかったので言いたいことはすべて言い、考えたことはだらだらと流した。原作について必死に私が思考した記録は、あとから見返すと「そんな展開にはなりませんよ」と滑稽で哀れなようにも、その時の展開に対して真摯に向き合っているようにも見えて可笑しかった。

 

さらに昨年はマシュマロを設置し、交流の場にした。まあわずかフォロワー50程度(当時)では滅多にこないだろうと思いつつ、たまに感想文が拡散されると徐々にマシュマロ送ってくれる人が増え、いろいろと発見があった。自分では考えたことのないテーマについて考えるきっかけになったり、新たな見解を見せてもらったり、私の足りないところを教えてもらったり、(たとえ悪意のある差別的なマシュマロがきても)(忘れねえからな)設置してよかったと思った。


いつも月末のバックさんの原稿受け取ったツイートが怖かった。月初になるとあと少しだと思い、5日をすぎたころにはもうあと数えるほどだと思った。7日には先月分を読み返してわからん……どうなるんだこれ……と思い直した。

8日は朝からそわそわして、夜には「禊済ませた(風呂に入った意)」ツイートが流れていき、私も風呂に入ってすべてのやるべきことを終わらせ、24時までに心身ともに整えた。その間ずっとTLは高揚感を上回る恐怖と緊張感が漂っていた。
9日0時ピッタリに、「いってきます」というツイートがいくつか流れて、数分間TLは止まり、そのあとは阿鼻叫喚の嵐だった。
最初は「うわあ」とか「無理」とか、「しんどい」「泣いてる」「どうして」という呻きのような、叫びのようなものが流れていき、2周目を読み、徐々に考察ツイートが流れていくのが常だった。気づけば1時だった。時間が剥ぎ取られたのかと思うくらい、その1時間は人生で最も早く過ぎていく1時間だった。

 

筆の早い人はその日のうち、そうでなくても数日中に最新話に沿ったファンアートが流れ、それがまた涙を誘った。息を呑むようなうつくしいものから、最新話の傷を癒やすようなコメディチックなものも流れ、そうした作品にくすりと笑って、傷にかさぶたが少しずつかぶさるのを感じた。
それらの作品というのは、最新話から作家が受け取った衝撃が、絵に、文に、昇華されていた。それは自分の解釈に合うものもあれば合わないものもあったけれど、そんなことは些末なことだった。なぜなら、解釈が違おうがなんだろうが、どれも一様に作者が真摯に作品に向き合ったことを窺わせていたからだ。この作品に向き合ってそれを作品として昇華させている姿勢そのものに泣けた。

 

他のジャンルかどうだか知らないし、私の周りだけかもしれないが、進撃の巨人という作品はその展開に賛否分かれ、激しい議論が交わされる作品だった。作者を盲信する風潮というのがなく、この展開はどうなんだとか、このキャラクターのこの行動はおかしいもしくは理解できるとか、180度違う感想を目にすることは珍しくなかった。〇〇派(地ならし肯定派、否定派とか)という言葉が生まれて派閥ができるほどに考え方が分かれて批判し合うこともあった。誰も何も信じていなかった。作者すら信じていなかった。むしろ作者を最も信じていなかったかもしれない。

 

そうやって意見の分かれるファンたちが一つになれる瞬間があった。それはキャラクターの死である。
そしてそれはこの作品においてはたびたび訪れた。私が読み始めてからのわずか一年半の間でさえ、だ。
そのキャラクターを好きだろうがそうでなかろうが、命がそこで途切れたという事実はファンをひどく動揺させた。涙を流す者もいれば、衝撃のあまり涙が出ない者、実感が湧かず呆然とした者もいた。


しかしそのキャラクターの死でさえ、どうしてここで死ななくてはならなかったのか、このタイミングで死んだ意味はなんだったのかで意見が割れることもあった。私が見ていた限りでは、ファンが一つになれたのは読む前の吐き気のするような緊張感と、読んだあとのうめき声、キャラクターが死を迎えたのを見た直後の呆然とした心地、それくらいだった。

 

考えさせられる主題をテーマにした作品というのは世の中に数え切れぬほどあるが、未完の状態で考えるというのはまた違った醍醐味があった。
週刊誌ではなく月刊誌だからこそ、一ヶ月間たっぷりその時点での展開について議論を交わすのは楽しかった。完結していないからこそ、この先こうなったら今のこの状況も納得できるだとか、納得できないだとか、先々を読者も考えながら読むことができた。

 

一人なら決して気づけなかった考察、解釈、伏線回収を教えてもらえた。もはや私にとって進撃の巨人という作品とは、読む前の張り詰めた緊張感〜阿鼻叫喚〜考察〜ファンアートという一連の流れをも含んだものだった。同じ時間を共有したファンがいなければ、この読書体験は得られなかった。

 


その経験があと少しで一区切りになる。最新話更新前の苦しさも、読んだ直後の衝撃も、味わうのはこれで最後だ。


けれど、最終回を読んでの読解は終わらない。これまで考えることがなかった回はただの一度もなかった。きっと今回も考えることがたくさんある。受ける衝撃は一過性でも、読み直すたびに生じる新たな発見と感動はたぶん永続的だ。この作品が何度読み返しても思わずため息をつくような伝説だと、そういう伝説として完結したと信じたい。まだ終わりたくない。何度でも味わいたい。

 

たしかに完結は大きいことだ。疑いようもなく大きいことだけれども、きっと完結でさえ1つの通過点でしかなく、この作品をどう読んでいくか、そのゴールを決めるのは私たちだと思う。というかそう思わないと完結の衝撃を受け止められないと思う。


まだ、ずっとずっと楽しもう。進撃の巨人は終わらない。ただ、とてつもなく大きな一区切りを迎えるだけだ。

その一区切りの前の禊を今から済ませようと思います。

長文感想マンになろう! ~私の長文感想の書き方紹介~

 先日、ある増田が話題になった。

anond.hatelabo.jp

 

 まあ、簡潔にまとめると、ある二次創作マイナーカプ界隈に、自分の好みの作品に対して長文かつ的確な感想を書く「感想屋」なるもの(引用元記事の筆者が命名)が現れ、界隈の神作家たちが、感想ほしさに(と筆者は思っている)感想屋の好みに合わせて作品を書くようになってしまった。作家の作品傾向が一人の感想屋によって変わってしまったことに対して嘆いている記事である。

 

 感想を書くのもひとつの能力なので、感想屋(この名づけ方もどうかと思う、揶揄の響きがあるので)の方はすごく優秀なんだなあと私は思ったのですが、これは結局みんなが感想の書き方を知ればそれで解決する話なんだよな、とも思った。

 

 私は長文感想を書くことに苦手意識がまったくない。別に特別得意というわけでもないけど。というわけで、この記事は私の感想の書き方について僭越ながら書いてみようと思い立ったものである。

 

対象となる方:

〇そもそも感想の書き方がわからない。何を書けばいいんだろう

〇短文感想は書けるけど長文感想は書けない

 

 感想書けるけどこわくて送れないという人はChapter. 2だけ読んでくだされば大丈夫です(大したこと書いてないですが)

 感想の書き方なんて千差万別なので、あくまでこれは私個人の書き方紹介です。こう書かないとだめとかじゃなくて、参考程度のものであること、ご了承ください。

 

 

Chapter. 0 感想とは

 大仰なタイトルで恥ずかしい。私なりの「感想とは何か」だが、感想とは①「どの部分に」②-a「どう感じたか」②ーb「どう解釈したか」であり、③「そのように思った理由」を書くものだと思っている。そして、普通の感想なら①、②aで足りるが、長文感想を書くポイントは②b、③である。

 

 ①「どの部分に」

 これは簡単。誰でもできる。該当ページ、コマ、該当表現を書けばよい

 例:○○頁の誰々の台詞が~、△△頁冒頭の「…」このたとえ表現が~

 

 ②ーa「どう感じたか」

 ②は感想の肝。

 ②ーaは、短いものであれば形容詞を使うのが楽だ。かっこいい、かわいい、きれいなど。別に形容詞じゃなくてももちろんいい。繊細、お洒落、素敵など。

 この部分は自分の熱量を伝える部分。難しい語彙は必要なく、自分がその物語に触れて、どう感じたのかを書けばいい。語彙がなければエクスクラメーションマークをふんだんに使って熱量を伝えてみてもいいだろう

 

 例:

・じーんときた、胸に迫るものがあった、嗚咽が止まらなかった、しばらく呆然として何も手につかなかった

・んがっこいいいいぃいい!!!!と思わず叫んでしまいました!!!!かっこよすぎて目の前がバラ色です、明日からも元気に生きられます!!!!五体投地!!!!!

・エモい!!!!!!エモすぎて今なら休火山を活火山に変えることさえできそう!!!!!!!!

・二人が可愛すぎてひれ伏しました!!!!ひれ伏した頭は地面にめり込み、ブラジルに到達してしまいました、、、ハローブラジル

 

 後半はなんか下手な大喜利みたいになっていますが、別にそれでいい。かわいい、かっこいい、尊い、エモいしか言えないしな…というのは、要するにその言葉がありふれているからであって、どこかにオリジナリティを足せばよいのである。

 私は大喜利はド苦手です。でも別に下手でいいと思ってる。面白くなくていい、大事なのは熱量。旬のワードを使うのもいいと思います。お分かりかと思いますが最後の例はサバンナのギャグからインスパイアされたものです。世代がバレる。これ私マジで多用してるんですよね…この記事を推し作家が万が一読んで、私がその作家にこの表現使ったら「オッきたな」って思われるのかな。恥ずかしすぎて今なら東京湾にダイブできる(へ、下手~~~!!!!)。

 

 時を戻そう

 

 ②ーb「どう解釈したか」

 「どう感じたか」は短文感想でも使う。

 長文にするには、この部分にさらに「どう解釈したか」を足すといい。例を出そう。

 

 例1:○○頁の△△の台詞、××頁の□□の台詞と対置されてますよね?ここの構成がすごいと思いました

 例2:○○頁の△△の表情、哀しんでいるようにもほっとしているようにも受け取れて、この絶妙な描写がすごいと思いました

 例3:△△は前半から後半にかけて成長していて、その変化が寂しいと□□は思っているけれど、本当に変化していたのは□□だと最後にわかる。ここまで△△の変化を寂しがる□□の心情を読んできたからこそ、ラストが余計に悲しく、寂しかったです。

 

 例1~3はすべて「すごい」「悲しい」「寂しい」しか言っていない。それでもここの感想に分厚さを感じるのはひとえに「読み込み」である。その作品を自分なりに「解釈」してみること、これに尽きる。

 ここはすごくこわい。なぜなら、解釈が違うと怒る作家さんもなかにはいるからだ。私も、いつも解釈が違ったらごめんなさいと言いながら送っている。

 

 その「解釈」ができねーんだよ!というお声もあるかもしれない。手っ取り早く言うと「意味を考える」ということなのだが、これは話が長くなるのでChapter.1 以降に譲ろう。

 

 

 ③「そのように思った理由」

 ここは長文にしていくにあたり、大事なポイントとなる。

 ②ーb「どう解釈したか」は「そのように思った理由」を内包するので、ここでは割愛する。

 

 ②ーa「どう感じたか」という箇所に「そのように感じた理由」を加えていく。

 ツンデレを考えてみよう。なんでツンデレがかわいいかというと、「普段ツンツンしてるのに突然デレデレしだすギャップ」がかわいいわけですよね。要はギャップ萌えです。

 ただ、なぜかわいい/かっこいいと思ったかって結構難しいです。かわいいに理由がないことはままある。容姿にかかわる感想は特にあまり理由がないことが多い。でも、うれしい、楽しい、悲しい、苦しい、つらい、しんどい、などの一定の状況に対する感想は理由があることが多い。ここを掘り下げると解釈になる。

 

 なぜ萌えたのか?なぜそう感じたのか? これは自分と向き合うという行為です。解釈は作品と向き合う行為に近いと思うが、なぜそう感じたかは自分と向き合う行為。萌えも泣き所も千差万別なので自由に考えてみよう。

 

 例1:容姿にかかわる感想

 「さっきのデフォルメキャラで萌えていたところへのこの等身! ひたすら顔がいいですね…流し目がたまらないです」(ギャップ→どう感じたか→特にどこがよかったか)

 「ああ~~~鎖骨が!!鎖骨が見えている!!私推しの鎖骨チラ見えがマジで性癖なので、○○さんの絵で性癖ド真ん中ポーズを見れて、手元におけて…私は…私は幸せです…ジーザス全世界に感謝」(かわいい等の形容詞もいいが、性癖に響いた、好き等で自分の感情を表現。三点リーダーはオタクの友)

 「△△さんの小説って□□が筋骨隆々に描かれているじゃないですか、マッチョ好きとしてはそこがたまらなくて…漫画だと視覚的にマッチョが伝わってきますが、△△さんの小説は筋肉の盛り上がり方の描写ひとつとっても文字から鮮明に映像が浮かんでくるんです、本当にすごくて…」

 

 容姿にかかわる感想は漫画のほうが書きやすいかもしれない。小説だとそのまま文章を引用することが私は多いかも。あとやっぱり容姿にかかわる感想は自分がとにかく好き/性癖に響いた、だからかっこいい/かわいいと思った、というのが普通かなと思うので、ひたすら好きを主張するところだと思っています。告白タイム。

 

 

 例2:状況に対する感想…ここを掘り下げると、②ーb「どう解釈したか」と被る部分がある

 「本当はそんなこと全然思ってないのに、ここでこう言っちゃうのがつらすぎます。彼はそうまでしても感情を押し殺さないといけなかったんですね。きっと気持ちをさらけ出したくてたまらなかったでしょうに」

 (なぜ辛いと感じたか?→彼は本当はそんなこと思ってなかったのに「そのように言わなければならなかったから」。これは「彼」というキャラクターの感情の解釈につながる)

 

 「□□がずっと願っていたことがラストでかなって嬉しかったです。彼のここまでの苦労を見てきたので、□□がどれほど喜んだかと思うと…」

 (□□に感情移入して、一緒に喜ぶ)

 

 まあこのへんも本当に自分が思ったことを書けばいいのだと思います。というか感想は全部そう。

 

 

 ここまでが個々の感想を書くための大前提。長かったな~!

 まとめると、

 例「○○頁の3コマ目、(①どの部分に)

△△の表情がマジでかわいすぎてしばらく虚空を見つめることしかできませんでした。(②ーa どう感じたか)

△△って幼少期すごくつらい思いをしていたから、こんなにも全開の笑顔を見せられるほどになったんだと思うと尊すぎて…△△がこんな笑顔を見せられるようになったの××への信頼の表れですよね。もう最高です(②-b どう解釈したか)

私、ずっと△△の笑顔が見たかったんです。原作で描かれなかったからこそ見たくて…それを大好きな作家さんであるAさんの御本で見れたこと、本当に幸せに思います(③どうしてそのように思ったか)

 

 正直だいたいこれでOKなんですが、さきほど「どう解釈したか」を書くっつったってどう解釈するんだよ!!!!というのを一切説明しなかったので、それ+αを以下で説明していきます。

 

 ここからが感想をいざ実際に書いてみるとき、どんなふうに書いていくかです。構成の話も含みます。

 

 Chapter.1 感想の構成を考える

  いやぶっちゃけ私もこれ聞きたいんですけど皆さんどうしてるんですか? 私はマクロとミクロに感想を分けています。

 

 Step.1 マクロとミクロに感想を分ける

 a. マクロ:作品全体にまたがる感想 (例:作品全体からのメッセージ性、伏線回収、作品構成等)

 b. ミクロ:作品細部の感想(例:たとえ表現、表情描写、情景描写、パースの狂いのなさ、デフォルメの可愛さ等)

  

 まあぶっちゃけ無理に分ける必要もないのだが、私はだいたいマクロな感想を述べてからミクロに移行している。

 

 例「まず作品全体についてですが、~(以下、伏線回収、メッセージ性、ラストについてどう思ったか、全体における登場人物の感情の変化について等)~。(マクロ部分)

続いて、細かいところなのですが、pp.1-3の主人公の表情の描き分けが~。pp.4-8 あ~ここの表情、△△は嫌がってるのかと思いきやこの台詞!たまらないです!××のデフォルメ具合もめちゃかわいくてサイコーです!!! p.9 は~~さっきのデフォルメからのこの等身…ひたすら顔がいい… p.10の「…」のたとえ、いやここでこのたとえ出るのって□□の心情にも舞台設定にもぴったりでお洒落ですごすぎて…もう言葉も出ません(ミクロ部分)

 

 マジでこのへんって本当に人それぞれというか、私もページごとに感想を送るのどうかしていると自分でも思う。細かすぎるし、作家さんからしたら作品を読み直さないとこの感想を解読できないという手間を負わせているからだ。申し訳ないなあと思いつつ、細かく感動した部分をお伝えしたくて、まるで創作の副音声をお送りしているかのようなテンションでお送りしている。嫌がられたら辛いね…でもそれを恐れてたら長文感想なんて送れないから…

 

 ②ーa(どう感じたか)をページごとの副音声方式で書いていくと、正直これだけでも結構な分量になる。20頁ほどの漫画でも1000~2000字くらいは書けると思う。

 

 あとマクロとミクロと両方書く必要も別にない。好きなほうだけ、書きたいと思ったほうだけ。

 

 Step. 2 マクロな感想を書く:解釈をしよう

 

 さて、先ほど、②ーb(どう解釈したか)の書き方を後述すると言ったが、それはこの「マクロな部分」に主にかかわる。伏線回収、作品全体のメッセージ性、作者が何を描きたかったか、作品全体の構成、作品を通してキャラクターがどう変わったか、など。このあたりを自分なりに考え、解釈していく。

 

 ※注意(追記)※

 解釈はもし違ったときに作家さんにとって非常~に不快な思いをさせうるので、解釈を送る際は慎重にしたほうがいいです。最後のほうでも書いたのですが、ご自身の解釈に自信がないときは、解釈部分は踏み込みすぎないほうがよろしいかと思います。解釈を送らなくても、これまでご紹介した内容+ミクロ部分(後述)を書いていけば十分長文になります。

 あくまで以下のマクロ部分は解釈が苦手なひとの手助け、解釈の第一歩になれれば、という考え方の提示です。でも解釈は練習すればだれでもできるようになります。ぜひ読んでみてね

 

  

 「解釈」の仕方として私が意識するのは、「対比」「類似」「変化」この三つだ。

 

 ①「対比」「類似」について

 正確に言うと、私は類似を見出した時に、なんでここに類似構造を出すんだろうと考える。するとそこには対比構造が埋め込まれていることが多い。これを意識すると、伏線回収に気づきやすくなる。

 

 例:

 「このセリフ、さっき別のキャラが言ってたな…」(類似構造)と気づく。

 ↓

 なぜその作家さんはそのセリフをそのキャラに言わせたのか? を考える。

  ・そのセリフを言ったキャラクターのキャラクター性はどう違うか(やんちゃなキャラが言うのと、しとやかなキャラ言うのでは意味が変わってくる)

 ・状況はどう違うか、

 

 とにかく徹底的に「何が違うか」「なぜこの違いを描いたか」(対比構造)を読み込み、考える。構造の把握である。

  たぶん、類似を指摘するだけでも作家さんはうれしいと思う。そもそも類似構造に対比構造が埋め込まれていないこともままある。

 

 あと、対比はこういう構造だけでなく、キャラクターレベルでも発現する。年上/年下(上司/部下、先輩/後輩、兄/弟)、ヤンキー/ガリ勉、社交的/引っ込み思案、など。

 年上なら責任感がありそうとか、そういうのを考えながら読み解いていく。年上で強がってるけど実は弱さを持った人で、むしろ年下攻めのほうが芯が強いんじゃないか…というのを描写に忠実に読解していく(超大事。描写に忠実じゃないとだめ)。

 

 さらに二人の関係性だけでなく、同じ構造が作中に複数ないかな~と探してみるとその違いがわかり、解釈が深まる。意味わからんと思うので、旬ジャンルで解説しよう。

 

 例:鬼滅の刃には兄弟姉妹が複数出てくる。

   竈門兄妹、不死川兄弟、継国兄弟…など。彼らの違いはなんだろうか?

   それは、竈門、不死川は兄が強い。とにかく強い。弟を守るために身を投げ出すことを厭わない。

   一方、継国兄弟は兄が普通だということだ。兄は普通のひとだった。弟がずば抜けていた。それで弟を憎むことができたらよかったのだが、なまじ弟が優しいからこそ兄は兄であることのプレッシャーに耐え切れなかったのだと私は思う。その弱さにつけこまれて鬼になった…と。

 

  …というように、構造がいくつかある場合に比較するのもありです。

 私の自ジャンルは進撃ですが、たとえば進撃は104期という子どもたちと、大人たちの対比もあるし、父と子の対比(グリシャーエレン、グリシャージーク、ロッドーヒストリア、エルヴィン父子等々。ケニーーリヴァイもこの括りに入れていいだろう)もある。

 

 ②「変化」について

 もちろん作品によるのだが、登場人物の感情の変化、登場人物を取り巻く状況の変化に着目する。

 

 例:

・「AがBを好きだと思い始めたのは、二人の手が触れあった瞬間ですよね。めちゃくちゃきゅんきゅんしました。あんなに最初つんけんしていたのに!」

 これもまあギャップ萌えにかなり近いですね

 

・「Cは作品を通して成長していますが、作品の序盤と終盤でどんなふうに物の見方が変わったかというと…となっていますよね。途中の反抗心も、ああこういうの私にもあったな~としみじみしました。最後の彼の台詞、いちばん彼の変化を感じられ、胸に迫りました。彼の成長を間近で見ている気持ちになりました」

 自分の経験と重ね合わせる、は感想文には割とあります。ただ当たり前ですが自分の経験を話しすぎてはいけない。作者に送るものに自分語りをするのはさすがにね…あくまで作品語りをする場です。

 

・「Dは病を患ってから、死に対する考え方が変わったんだなと思いました。死に近くなった分、拒絶から受容へ変化した。だから死に顔があんなにも安らかだったのだと思います。これまでの彼なら、きっとああはなれなかったでしょう」など。

 「もし変化していなかったら~」を語るのもあり。でも語りすぎてはだめです。これまた自分の妄想を送り付けることになるからです。

 

 あとは、弱みをひとに見せることができなかったのに、最後は弱みを見せるようになったとかも、よくある成長の描かれ方ですね。

 

 あるいは、逆に「変化していない」ことにも注目するのもあり。

 例

:「○○も△△も□□もみんな変わっていった。でも彼だけはずっと変わっていなかった。彼の最初の台詞と最後の台詞、言う状況は全然違うのにまったく同じ台詞だということに気づいたとき、鳥肌が立ちました」

 「Xが変わっていくのに、Yは変わっていないように描かれている。でもXを受け入れたYもまた、変わったのだと思う」

 

 で、ポイントはここなんですよね。

 「このように描かれている」、これは作品に沿った客観的な視点。実際にそう描かれているという事実。

 だが「Yも変わったのだと思う」こちらは、主観的な視点であり、解釈だ。これは物語には描かれていないが自分はこう思ったという解釈。これが長文感想のもとになる。

 

 ここで大事なのは、きちんと本文を読み込むこと。本文からありえない発想をするのは解釈違いになりがちなのでNG。どうしてそう解釈したか、を書こう。

 例で言うと「Xを受け入れたという変化がある」だから「Yも変わったのだと思う」のであり、理由がきちんとある。妄想を混ぜてはいけない。

 解釈違いが起こるのは読み込み方の問題なのかな~と思っている。その作品の描写に忠実に考えることが何より大事。そういう意図で書いてないですと言われてしまったら…うん…哀しい、自分の読み込み方に問題があったということだから。

 

 あえて妄想を入れるとしたら「結末のその後の二人を~~~なふうに妄想しちゃいました」くらいなのかな~と思う。それも正直微妙だと思いますが。あえて作者がぼかしたところを提示しても正直作者は困るんじゃないかな。人にもよると思うけど。「いろいろ想像しちゃいました」くらいがちょうどいいのかも。

 解釈と妄想は全然違う。感想文は、妄想という名の三次創作を開陳する場所ではない。

 「ここの表情、○○○の部分でも触れられていますし、もしかして…ということなのでしょうか?(違ったらすみません!)」とかならいい、のかなあ…わからん。まあでもとにかく抑えめ。堂々と妄想を語らないほうが無難。断定表現は避け、妄想を入れるとしても根拠を示した方がいい。なぜ自分がこう思ったのか、根拠、理由をきっちり書こう。

 

 

 難しいですね。私にとっても難しいところです

 

 

 Step. 3 ミクロな感想を書く

 これは要するに着眼点さえモノにすれば、あとはどう感じたかを書くだけ。簡単。

 漫画を描くひとが「文章が拙くて感想が書けん」みたいなことをおっしゃるのをみたことがあるが、漫画を描く人はね!!!!漫画を描くからこそ、すごさに気づくことができるので!!!!!!!自信持ってください!!!!!!というか私に教えてください…

 

 私は漫画を描いたことがないし、絵もほぼ描いたことがない。絵を描いたのは、絵がド下手芸人なのにもかかわらず、突然推しにトチ狂って推しが脱糞する絵を描いたときくらいだ。「ウンコ」って名前のレイヤー作ったって友達に言ったらめちゃくちゃ笑われた。

 そんなわけで、漫画を誉めるときの着眼点がいまいちよくわからない。パースの狂いのなさとかわかんないしね…私が描いた絵はデフォルトが複雑骨折してるので人体描けるだけですげええ~~~という感覚です

 

 

 ①漫画作品を誉める場合の着眼点(漫画を描いたことのない私なりに考えてみた)

 ・コマ割り

 余韻を持たせたり、あえてここで大コマ使ったり。コマ割りで変わるのはスピード感だと個人的に思っている。大きいコマだと時間が止まったような感覚になるし。緩急ががっつりついていて、ここまで疾走感にあふれてきたのに、あえてここで一ページ丸々使って時間をぴたりと止める、とか。そういう緩急のつけ方に着目する。

 

 ・オノマトペ

 オノマトペ、つまり擬音語、擬態語のこと。まあエロシーンだと濁点喘ぎとか♡喘ぎとかぐちゅ、とかぐぷ、とか「好みの喘ぎ」「好みのオノマトペ」がそれぞれあると思うんですけど(ある…よね?)、「かちゃかちゃ」「バタン」「キーン」などのオノマトペに好みって、普通そんなにないと思う(「トテトテ」歩くのとかかわいいけど)。 

 

 むしろオノマトペは無音になったときにこそ意味があると思っている。そこまでいっぱいオノマトペが描かれていたのに、ぴたっとそこに無音が訪れる。台詞、表情に惹きつけられる。これまた緩急のつけ方だろう。ギャグシーンとかでも結構使われますよね。無音の間。

 

 ・デフォルメキャラ

 これはもう…かわいいので…

 

 ・表情、ポーズ等

 この辺はみんなそれぞれ好みがあると思うので…ここは漫画というか、絵ならではの部分。小説と異なり視覚的に飛び込んでくる絵のどこが好きなのかを書く。視線がどこに投げられているのか、その表情はどんなふうに見えるのか(悲しそう、うれしそうという感情はこちらが感じるしかない)

 

 うわ~~~想像以上に漫画作品における着眼点が私に!!!!ない!!!!最後の二つとか特にだれでもわかることだしな!!!!!!本当は構図のすごさとか、パースがきいてる?とか、いろいろあるのだろうと思うのですが、いかんせん気づけないので…こんなもんでしか語れねえんだ…えらそうにすみません…いやまじか……想像以上に引き出しがなかった……教えてください 私には無理や

 

 

 ②小説作品を誉める場合の着眼点

 だからといってじゃあ小説は褒められるのかっていうとこれも私は微妙だ!!!!!すまん!!!!!

 

 ・背景描写、情景描写

 よく、主人公の心情が天気模様に表れているのを国語の授業で見ませんでしたか? 悲しいときに雨が降ってたり曇り空だったり、そういうやつがまずある。ただの背景描写にもそれぞれ意味がある。

 天気だけじゃない。もう誰も座る人がいないのに、それでもそこに椅子が置かれている意味は? とか。花言葉とか。小物の意味を考える。花が満開だったのに最後は散っている意味は? など。

 

 また、小説は絵と違って視覚に頼れないので、どのような匂いなのか、主人公はそれをどう感じたのか、豊富な語彙を使って詳細に描いていく。そういう視覚に頼らない、匂い、色彩感覚、温度といった五感にどんな語彙を使うか、そこにその作家さんの個性が出ると思っている。そのなかで自分の琴線に触れたものを伝えてみよう。

 

 ・比喩表現

 すごい作家さんは比喩表現が上手い~~~~~!!!!!!ここでそのたとえが出てくるのか!すげえ!と唸るような詩的な比喩表現。それもただ発想力のある独創的な比喩というだけでなく、そのキャラクターに、その舞台設定に合った比喩表現であるというのがマジですごい。

 

 ・リズム、流れ (※句点、読点につき、一部改変しました)

 漫画と違って、文章は視覚的にリズムを作れない。だから作家さんは、どこで読点を入れるのか、句点を打つのかにも気を遣う。短文が続くとテンポがいい。アクションを描くときとか要所要所で短文が入りますよね。長文が続くと緩やかなテンポになり、考えさせる部分になる。

 読点も同じでリズムをつくっている。「俺はこいつとどうなりたい」より「俺は、こいつと、どうなりたい」のほうが、戸惑い、自問する様子が伝わります。

 

 以前「読みやすいというのは誉め言葉じゃない」みたいな話が話題になったが、「読みやすい」というのはこのリズム、流れがすごく自然だということだ。

 たぶんこの「読みやすいは誉め言葉じゃない」というのはつまり、「読みやすい? 私の文章は子どもっぽい語彙だって言いたいの?!」というふうに感じられたのかな?と思う。確かに難解な語彙を多用する作品もすごい(よくこんな言葉知ってるな~と思う)けど、その語彙の使い方で慣れてなさが垣間見えたりすると「背伸びしてる感」が出るし、難解ならなんでもすごいってわけじゃないだろう。やわらかい語彙を使ってて読みやすいのに、内容が難しくて考えさせられる…みたいな作品もあるし。

 正確に言うと、語彙の堅さ/柔らかさと、読みやすさ/読みにくさと、内容の難易はそれぞれ全く別の話だ。語彙の堅さ/柔らかさは知識の話、読みやすさ/読みにくさはリズムの話、内容の難易は内容の話だ。

 

 そんなわけで、私自身は「読みやすい」はめちゃくちゃ誉め言葉だと思っているが、「読みやすいは誉め言葉じゃない」という話が出てからは「私は『読みやすい』が誉め言葉だと思ってるタイプなんですけど、このあたりの文章の流れとか本当に自然で読みやすくて、すっと頭に入って来るんです…」と一応一言入れる(こともある)。

 

 

※注意点※

 こういう技術的な部分を褒めるの、上から目線になりがちなのでそこはマジのマジで細心の注意を払った方がいい。これ誉め言葉というよりアドバイスではって思い始めたらアウト。送る前にしっかり読み直そう。

 どう気をつけたらいいのか上手く言えないんですけど、嫌味にならないように、でもここがすごい!って言えればそれがいちばんいい。

 なんだろう…例えば、アヴリル・ラヴィーンの歌、音程外してなくてすごいよね~とか言ったらそこか?いや歌手だしそれは舐めてんのか?ってなるけど、あんなたっかい音よくブレずにロングトーン出来るよな…改めてすごすぎるよ…とかなら嫌味じゃないし…みたいなことなのかなあ。うーんなんかちょっと違うかも。

 とんちんかんなことを言うとアレ…?って思われてしまうかもしれない。私は漫画はマジでまったくわからねえ~ので、技術面はあんま深く言及しないです。でも「スピード感がすごいのに、ここでオノマトペが消えて止まって間ができてるのめちゃくちゃ笑いました!」くらいは言うけど、見当違いだったらどうしよ~とかはいつも思う。

 

 

  以上、こんなところです。

 

 ※追記 

 で、結局どんなふうにまとめるのよっていうのがわかりやすく書いてあるツイートを発見したので貼っておきます。ぜひ

 

 

 

 といってもですね、感想なんていうのははっきり言って自分の書きたいように書けばいいんであって、これは本当にひとつの参考例です。あくまで何から手をつけりゃいいのかわからんという人向けです。

 

 たとえば、私は以前BANANA FISHの最終回の感想を書いたのですが、

turkey-a-san1102.hatenablog.com

 これなんかマジでただのお気持ちですからね。対比とかなんもないし。ただひたすら妄想繰り広げたり自分の経験を思い起こしたりしているだけで、はっきり言ってイタい…よな…わかります。イテテテ。それでもまあ、お気持ちだけでこの程度の分量は書けるのだ。だいたいこれで2800文字くらいです。

 

 

こっちはまだ解釈をしようと試みているかもしれない。本誌読んでたので単行本買ってないのですが、ひょっとしたら本誌バレなのかな? アニメ化はまったくされてない部分の感想なのでお気を付けください。

turkey-a-san1102.hatenablog.com

 

あくまでご参考まで、です。

 

ほぼここまでで言いたいこと全部言い終えたんですが、以下蛇足。

 

 

 Chapter. 2 感想を送るのが怖い? (やや蛇足)

 Chapter. 1までは感想の書き方の話をした。ここでは感想を送るに際してのメンタリティについてだが、まあそれについては散々言われてきたとおりなので短めに。

 要するに、感想はどんな短いものであっても送られた方はうれしい(はず)、ということだ。

 送る側としてはこわいのはわかる。特に長文だと、解釈違いって怒られたらどうしよう、とか。でもまあ感想は送ったもん勝ちなのでいいと思います。それでも怖い、自分の解釈に自信がないという場合はそもそも解釈を書かなければいいんですね。解釈違いが起きないようにするために、作品の解釈までは踏み込まず、ミクロ部分でひたすら熱意を伝えることがいちばん無難です。ミクロ部分だけでも十分長文になるし熱意は伝わる。

(あと、長文感想を送って気持ち悪いって思われないかな~とか不安になることもあるので、そういうとき私はその作家さんがほかのひとの感想に対してどう返事しているかを見てます。結構フレンドリーっぽいから大丈夫なのかな?と思ったら記名で送る。そうでもなさそうだったらマシュマロ、メールで無記名とか。場合によっては長文は控える)

 

 で、それは散々言われてきたことなのでこのくらいにして、今回の増田が嫉妬する原因を考える。感想屋さんは人目に付く部分で感想を述べていたらしい。それが界隈の傾向が変わった原因であり、増田が嫉妬した原因である。

 自分が意図しなくても勝手に相手に嫉妬されるのはよくあることなので、感想を送るときに人目につかない場所から送るのがいいと個人的に思う。というか私はそうしている。マシュマロとか奥付のメール、DMなど。誰々に送ったのに私に送ってくれないという無用な感情を呼び起こさないために。周りを見ていても、感想以前に誰々の同人誌を買ったとかもあんまり言わない方が多い気がする。 

 いや別にオープンで書くことが悪いわけじゃない、そんなルールないし。でもこういう波立たせ方をしない無難な生き方を選ぶなら、クローズドな場所の方が楽だよねって話。

 

 増田は、感想屋さんのおかげで投稿数が増えたのはうれしいみたいなことを描いていたが、感想を人目につかない場所で送っていたとしても投稿数は増えたのでは?とも思う。たぶんだけど。さすがにオープンに感想を書いて界隈を自分好みに寄せるのが目的とかはないと思います。わからんが。

 人目につくところで感想送ることの影響が「あの人に感想送ってる、私ももらいたい、だから頑張って描こう!」ってことだったんだろう。そんなにたくさんのひとがそうなったというのはマジで感想屋さんの能力が高い。でもそこまでしなくても、個別に送られればそれで励まされて投稿が増えた人だっていたんじゃない? とも思う。

 

 感想は感想でしかないので、いくら感想を送っても作家さんはやめるときはやめるし、ジャンル移行するときは移行するもんだと思う。私は微力ながら執筆の活力になれればこんなに光栄なことはございませんみたいな姿勢で送っている。とにかく作品への好きが止まらずに放出しているだけだが、あわよくば…活力になってくれたら…みたいな感じ。

 でも、送らないと心が折れる作家さんがいることも知ってるから、とにかく「うおお頼む!今回マジでよかったから次回もよろしくお願いします!」という祈りの意味も込めながら送る(絶対作家さんには言わないけど。次回もお願いしますってなんかプレッシャーかけてるみたいだし嫌がる人は嫌がると思うから)。まあとにかく応援なんだよな~~応援の気持ち!応援の気持ちで送ろう!誤字だけ送るとかは絶対だめだぞ!そもそも誤字なんかは聞かれたとき以外送らないほうがいいんだからな!

 

 あと、応援の気持ちを見返りなしに送るのが長文感想文なので、相手の反応に期待しないほうがいいのではと個人的に思う。私は幸い嫌な思いをしたことがないけど、なかには長文書いたのに返事もらえなかった…というひともいると思うので念のため。

 やっぱ長文感想を書くのはエネルギーいるから、喜んでもらえないとこっちもへこむのはわかる。でももともと感想って愛を綴るだけ。応援するだけ。そういう姿勢で無理なく感想書く方が気楽だ。もちろん、相手に喜んでもらった方が書いてよかった~!って思えるのはそうなんだけどね。

 

 (有償の感想屋はまあ、需給がバッチリってことならいいんじゃないですか? って思うけど、賛否両論あるのはまあそうだろうねとは思います。特別賛成反対もないかなあ。私の感想が有償の感想屋のものかもと疑われるのはな~とは思うけど、それはまあ…宣言するしかない。感想屋じゃないです、と。しがない文字書きとしては別に有償で感想屋から感想送られてきても嬉しいかなあ。でも私は自分の性癖を発露するために書いているのであって、誰かに長文感想を書いてほしくてやってるわけでもないので、そこに強いこだわりがないからかもしれない。誰であれ読んでくれるのはうれしい。読んでもらえんと思って書いてるので

 

※追記 有償の感想屋、めちゃくちゃ燃えててびっくりした。まあいいんじゃないですか?とかじゃなくて思いきりだめですね。あれ感想文なの?と思ったけど、それはそれとして返金トラブルとかいろいろ…まあだめだなと)

 

 

 というか、そもそも増田のいうところの感想屋さんの感想文、絶対すごくいい感想文でしょう。私も読みたい。どんなふうに書いているのか知りたいもんね。自分の感想執筆力を高めるのには打ってつけ、最高の環境では(増田がそういうふうに思う気力もなくてあの文章をしたためたというのはもちろん理解しているけれど)

 

 

 Chapter.3 さいごに (蛇足の蛇足)  

 

 まず前提として、私は界隈の傾向を左右するような力はまったくないし(界隈がでかいし、そもそも私は今いる界隈に足を踏み入れたのは最近なのでドドドドドドドドド新規。まったく偉そうなことは言えない)、仮に左右するような力があったとしても自分の感想で作家の傾向が変わってほしいとは全く思わない。そりゃまあ好みの作風はあるけど、好きな作家がそれぞれの好みににトチ狂っているのを見たいのであって、私自身の好きなものを書いてほしいわけじゃない。いやまあ…うん…自分の好きなものは見たいよ、見たいけど作家さんの好みを変えてまでとは思わない…

 

 長文感想の長さについて、私は長文で送るときはだいたい3000~1万字くらいのを送るので、まあその程度書いてれば長文の部類には入ると思う。ただ長文で送る数は多くはない、というかむしろ少ない(なので引用元の感想屋さんと違い、私は長文感想を送る能力は高くない。あーだこーだ偉そうに言ってきたけれど…短文感想は普通に書いてるよ)。やはり感想を書くにも創作とは違ったエネルギーがいる(私はしがない文字書きです)。

 作品と向き合い、自分と向き合い、思考するのは、創作と同じくらい大変な部分もあると思う。創作にエネルギーが必要で書ける日も書けない日もあるのと同じで、感想を書くのもエネルギーがない日は書けないし、ある日はバリバリ書ける。感想屋さんはそのエネルギーがめちゃくちゃある。それだけで才能だな~と思う。

 

 さらにそもそも「長文感想を書く」能力と「感想を送る」能力は似て非なるものだと思う。長文を書く能力を持っていても送らなければ意味がない(自戒…)。短くても送られた方がよほどうれしい。長文感想を書けるようになるための記事を書こう!と思って書いたが、長文感想を書くのが苦しかったら無理に書く必要はまったくない。感想は義務じゃないんだし、長文が書けないなら短文でも十分すぎるほどにいいのだ。

 

 結論:感想を書こう!送ろう!

 

 以上です。ご清聴ありがとうございました。

 というわけで! よければこの記事のご感想などお願いします!短文でもうれしいんだぜ!(でも無理はしないでね) 中傷はなし

https://marshmallow-qa.com/turkey_sngk?ut

 

 

 

 

 

 

 

進撃の巨人 129話 懐古 感想

いままで伏せったーに感想置いてたんですけど、自分の感想を見返す機会がわりと多いので(何書いたっけ?って思う)、ブログに格納することにしました。
 
pp.1-3
泣いているコニー。海に手を伸ばすアルミン。銃弾がえぐい。2頁目で一気に戦況のさなかにいることを思いだす。かつての仲間の死、みずからの手でくだしたという事実に呆然としたままではいられない。
女型と鎧が味方になって戦っているのめちゃくちゃアツいなあ。アツい。あと巨人の戦闘シーンは本当に胸が高鳴る、迫力がすごい。ここアニメでも見たいな~という気持ちでいっぱいになった。船を挟んで女型と鎧が対称になってる構図なんですね。本誌は電子で読んでるので初読時気づかなかった、単行本でも見たい…
 
pp.4-6
巨人がすべての大陸を踏みつぶすまでに4日しかかからないの?!は、はやい…はやい…っていうか最終回までの原作のなかでの時の流れは(突然時間軸飛ばない限り)残りせいぜい4日前後しかないってこと?いやいやそんな…えっ本当に?
 
レベリオがすでに間に合わないの地獄だな~。地獄だな~というのはつまり123話で飲み明かした思い出のあるひとびとが、街が、踏みつぶされていくのもそうなんだけど、あのー、アニにレベリオはもはや手遅れだろうということを伝えずに場所を移動させるのがまた地獄だな~という
(いやあの戦況でそんな細かく伝えるのは無理なんだけど、このあとレベリオはもう手遅れということをアニは知るわけじゃないですか。そのときアニがどう思うかということを考えると本当につらい。彼女は何のために戦ってきたのってなるじゃない)
 
123話でパラディの面々が飲み明かした相手は戦争で居場所を失った人々であって、ここでジャンが彼らを思い出したことで、なんていうか戦争が弱者を踏みにじるものであることをまざまざと見せつけられているようで辛い。
あのときはパラディも、テントに住んでいた彼らも、同じ「弱者」であったが、いまやパラディ(というか地ならし派と反地ならし派)の人々は皆戦争を起こす側である以上「加害」に回ってしまったわけである。
 
いやーしかしこのあたりってどうなんですかね?あんまりイェーガー派と反イェーガー派と言いたくないので(だって別にエレンと対立したいんじゃなくて地ならしをやめてほしいわけですから…最終目的はエレン殺害じゃないって信じてる私は)ひとまず、地ならし派と反地ならし派と言わせてもらいますね。
反地ならし派の皆さんは加害者にあたるかという問題。彼らに加害者側だという意識はないと思うんですね。だってエレンを止めるのが目的だから。虐殺を止めるのが目的だから。人々を、世界を救うのが目的なのだ、加害にあたるはずもない。まさに126話ラスト、コニーが言った「世界を救いに」とは文字通り「世界」であって「パラディ」ではない。
 
しかし、本当に彼らは加害者にあたらないだろうか。
だってフロックが言っている通りエレンを止めればパラディは血の海になること必須なわけだ。そのとき殺されるのは誰だろう。兵士も多く死ぬだろうが、やはりそこに巻き込まれる民衆たちも多く死ぬ。それはレベリオで難民として暮らす彼らのミラーリングだ。世界を救おうとするという気持ちの先で、パラディの民たちにとっての加害者になってはないだろうか。
実のところ、反地ならし派がどうやってエレンを止めるのか、どうやってパラディを救うのかがわからないからこんなことになってるんですよね。理由も虐殺はだめだからの一点に限られている。「パラディが血の海に」なるのを防げるならそれがいちばんいいし、彼らは加害者にならない。でもそれを防げないからエレンは決断したんじゃないかと思うんですけど…うーんわからん。とにかくここでレベリオの彼らを思い出しているジャンの気持ちはすごくよくわかるが、それはエレンを止めた先の未来のパラディの民だぞと思ったのでした。
 
pp.7-8
 
賭け、かあ。賭けを迫られるハンジを見てエルヴィンを思い出す。死してなおこんなにも影響を及ぼすなんてな…
エルヴィンは引っ張って自ら賭けに出る感じがありましたが、ハンジは賭けを迫られるというのがまた…団長というのがいかに重責かと思うな。
 
pp.9-10
 
あーこれ!さっき言いましたが、アニは「父のもとまでたどり着けるの」かを気にしてる、あたりまえだよねえ、父のもとに帰るため彼女は戦っているのだから。でも彼女はこのあと船内で父はもはや手遅れであることを知るわけでしょ。いやあ、めっちゃつらい、地獄だ。エレンに勝てるの?のあと、「レベリオの父の元までたどり着けるの」とくるのだから…はあ…

もともとが利害が一致しただけの休戦協定なんだから、ここでアニに利がなくなったらまたひと悶着ありそう。
 
それはそれとしてアニとミカサの共闘アツいな~
 
pp.11-15
 
p.11の「ヨオオイドオオンダッシュ」気づかなかった、、、いつものことながら気づく方々すごいな。


p.12でハンジが俊敏に動いて敵を殺すじゃないですか。いいね~~~と思いました。そうだよねハンジも兵団の一員で彼女も幹部でいまや団長なんだし、そりゃ上手いよな…
フロックの「まさか」は船で逃げるのを察知したという意味の「まさか」だよね、いや~それにしてもフロックは本当に察しがいいな。


p.13のライナーの「ぐッ」の顔がかっこよすぎる~~~~あ~~~かっこいい~~~~
でかい腕でアズマビトたちを守る鎧と女型、本当にかっこいい。それと同時にアズマビトまじでこわかったろうな…と思ってしまった。私なら失神するっていうか膝がくがくで動けない…
雷槍が腕に直撃している女型、本当に痛そう、見てるだけでこころが痛い
 

 

pp.16-17
女型を守る鎧があまりにもかっこよすぎて惚れた。かっこよすぎだろう。焦った女型の顔も新鮮。女型の表情ってこんなにわかりやすく伝わるんだね。結構表情豊かだ。
そしてフロックの言葉。モブ兵士たちの表情、なんかあまり覇気が高くなくない?そんなことない?フロックに気圧されているような感じの…気のせいか。まあ命を捨てる前にはああいう顔になるのかも。「うおおお」て感じじゃないのかも。だって命をかけるんだもんな。


なんかこういうところ、すごいと思う。ウォール・マリア奪還のときのエルヴィンに従った新兵たちもそうだが、命をかけるときの恐怖が描かれているのが。命をかけるって簡単じゃないんだよって表情で描かれるのが、いい。
 


pp.18-19
p.18のイェレナ、どんな表情?腕痛いのかな…違うか
へ、兵長~~~~そんなとこにおわしましたか!!!かわいい!!!!かわいいな!!!!!だれが括ったんだろ…やっぱオニャンコポンかジャンかな……ところでピークが海から上陸して以降、兵長のお姿が拝見できないんですけど落ちてないよね?ちゃんと船に乗ってますよね??
 
「オレじゃなくてガリアードさんだったら…」ああーーー死者に対するこの、この…自分じゃなかったらという思い、ここまででも見たな。ハンジとかアルミンとか。うう。死者は生き返らないので死者に対する「if」の話をされると本当につらくなる。
しかもその死者は自分の命とトレードオフだったなんてしんどすぎる。自分が無力だ、あの人だったならばと思うことの重みが違うよ。自分が死ねばあの人は生きていたのであって、自分の命と他者の命を天秤にかけたうえでの「あのひとが生きていたら」、こんなに重い言葉があるか。
 
ファルコ、ぴょこんと飛び降りてしまってもう…しかしこれまでもそうだったが、ぴょこんと飛び出て問題が起こることが多いな…ガビが立体機動装置使ってサシャを撃ったりさ…
 

 


pp.20-22
「すぐに回復する」、つらい。巨人になるっていうのはそういうことだ。身体の違いを改めて感じる。「船を守る」のコニーの顔、、、コニー、もともとおバカキャラみたいな感じだったと思うんだけど、こんなに険しい顔をするようになったんだなと思う。つらい。彼がこんな顔をしなくてはならない状況になってしまったことがつらい。
水からざぱんと出てきたピークちゃんの背中に兵長を視認できない~~でも角度的に仕方ないね~~ 
 
 増援車両が倒されているが、は~~これをキースが…どうやって…とは思うがもういいわそんな細かいことは…どうやってでもいいよ…うう
p.22のアニとライナー、ぐちゃぐちゃになっている、、、アニにいたっては頭がとれてるし…
 

 


pp.23-25
p.23のコニー、エッ待って死なない?大丈夫?と思ってめちゃめちゃヒヤッとした、よかった…アニを助けるためにコニーが立体機動装置で飛ぶの、なんとなくトロスト区防衛戦でリフトに104期が乗って四方から巨人を倒すシーンで、巨人を倒し損ねたコニーをアニが助けるシーンを思い出した。


ツイッターで見かけたんですけど、ウトガルド城でコニーはライナーに助けられたとき、コニーは「俺…お前に助けられてばっかだな…あぁ…そういやアニにも命張って助けられたよな」「いつか借りを返さねぇと…」と言ってたんですね…

そこの伏線回収だったんだな!!!!!なるほど!!!アニの方しか思い出せなくてライナーに助けられてたのすっかり忘れてた。もう本当によくお気づきになりますねみなさん…


ちなみにウトガルド城のシーンでは、このあと、「普通のことだろ…兵士なんだからよ…」というライナーに、「どうかな…あんな迷いなく自分の命を懸けたりするのって…ちょっと俺には自信ねぇぞ…」とコニーは返していて、うううコニー……という気持ちになったのでした。命を懸けるようになったことの力強さと、命を懸けねばならなくなった哀しさと。


p.25の「躊躇えば」のコマがジャンなの本当にさ~~~~ね~~~~という感じだ。躊躇えば仲間が死ぬ、もう躊躇わなくなったんだなと思って、どれだけ過酷な世界にいるのかと思うよねえ改めて。人を殺すのに躊躇うことのできない環境って何なんだ…苦しすぎる
ここの104期とハンジさんかっこよすぎるし、躊躇えなくなったことが哀しいしもうぐちゃぐちゃ
 

 


pp.26-27
「俺たちの国を!!」で、ああパラディは島ではなくて国になったんだなと思った。何巻だか忘れたけどマーレ他国家というのがあるのを知った時、「国?っていうのがわからん」みたいな台詞があって、ああそうか国家って概念がないのか、と思って新鮮だったんですよね。
国民国家の成立と見ればいいんだろうか。王政があった以上主権国家はすでにあったわけだし。ハンジたちに対抗して革命を起こして…と見れなくも、ない、が…でも別にそうじゃないんだよな~市民革命とは全く話が違うもんね。でもまあ自国への帰属意識が生まれたという意味ではそう見てもいいのかな。いやまあ当てはまらねえか。いいや。すみません浅い知識で偉そうに話してしまった。しかし彼らは明確にここで国民という意識になったんだなとは思ったんですよ。国への帰属意識というか。

 


pp.28-30
あーーーファルコーーーッッ………鳥みたいなフォルムなんですね。23巻冒頭の鳥に手を伸ばすファルコを想起させるね。ファルコは自由の象徴になるのかなあ、やはり今後の解決のキーはファルコになるんだろうか。


23巻で前元帥が「羽の生えた巨人はいなかったか」と言っていたことがここで回収されていくのかもしれない?と思った。羽が生えて飛べる巨人になるかしら。まああれは、巨人を凌ぐ技術を持ち始めた周辺国の様相を見て、いずれ戦場は空になるから巨人という兵力に頼っててもいずれ負ける、という文脈だったので、一体だけ空を飛べたところでどれほどの意味があるかなあ…と思うけど。
ファルコ巨人のフォルムかっこいいな。顎の巨人のフォルムを見るのはユミル、ガリアードに続いて三体目だけどファルコはこういう感じなんだなあ。


 p.29のアズマビトが頑張って石炭入れてるのちょっとかわいい。いかにも力仕事苦手そう。

 

 


pp.31-34
「エルディアを救うのは!!俺だ!!」という叫びを聞いてつらくなる。そうなんだよな〜〜〜いや、そうなんだよ、彼らもまた救おうとしているんですよね……
ところでここ、フロックが右腕?右肩?を撃たれてるんだけど、エルヴィンが隻腕になったところのリフレインだという考察を見てマジでこういうところ気づく人本当にすごいな〜と思った。たしかに死守せよとか、心臓を捧げよとか、エルヴィンの号令を思い出す言葉のあとに右腕?喪うのが、リフレインだっていうの、は〜〜〜〜なるほど……という感じだ。まったく気づかなかった。なるほど。


p.30とp.32のコマ割りめちゃくちゃすき、、、イヤ漫画は描いたことないんでコマ割りとかよくわかんないんですけど、それぞれの顔がパッパッと出るのすきなんですよ……


p.33でガビが狙撃したことがわかるわけだが、ガビの狙撃力がバリ高くてすごい。彼女、サシャ、エレン、フロックを狙撃したことになるんだな…。ガビがすごく動揺したようなぎりぎりなような顔をしているのが心にくる。サシャを撃ったときは憎しみでいっぱいの顔をしていたけど、彼女はいまターゲットが血の通った人だと理解して狙撃するとき、こんなにぎりぎりの顔をするんだな。いや~~そりゃそうだよ、人を殺すって本当はぎりぎりの、つらくてきつくて苦しいことだ。それが悪魔じゃなくて人だとわかったときはなおさらそうだ。それに対して「よくやってくれた」と言われる世界線


サシャをガビが撃ったとき、その直後、フロックはガビとファルコの頭引っ掴んで「こいつらロボフさんの立体起動装置で飛び乗ってきやがった」「外に投げる」「それでいいな」ってもう本当にめちゃくちゃ怒ってたんだけどさ、そのガビが今度はフロックを撃ってハンジに「よくやってくれた!」って言われるってさ…………いや、まじでほんとなんでこうなった……なんでこうなった………………(結局ジャンが「子供を空から投げ捨てれば…この…殺し合いが終わるのかよ…」と語り、投げ捨てられない。いや本当に殺し合いがずっとずっとずっと、終わらないね……終わらない、………)


p.33、「フロックが!」と言われるくらいにはやはり支持を集めていたんだよなフロック……そのあとに真っ二つになるのがミカサのブレードの切れ味がすごすぎて背筋が冷えるわ。南無。残された面々の絶望的な顔。

 

フロックの海に落ちたときの水しぶきが不自然に船に伸びてるから乗船してるのでは的なツイ―ト見たんですけど、ほんとだね…いや全然気づかなかった。乗船してるんだろうな~~というかフロックはまだ死なない気がする。悪運強そうだし、、でももう誰も死んでほしくない。ガビとサシャのリフレインはいやだよう~~~~


pp.34-37
ようやっと終わったと思ったら、ふぁ、ファルコ〜〜〜〜…………!!!!いやこれめちゃくちゃやばくない?まさかの車力が食われそうになってるこわいよーと思っていたらマガトが救出。マガトに抱かれているファルコ少年、美少年すぎでは。

 

pp.38-39

みんなもうぼろぼろだ、、、オニャンコポンがこれから大丈夫なのかと心配する気持ちもわかるくらいぼろっぼろ。「殿を務める」って言った瞬間みんなその言葉が何を意味しているか瞬時にわかったよねえ~~「元帥だってば」の言葉が…せつない、、

p.39の死体ってサムエル?

 

pp.40-41

キース!!!!!!!!教官の登場の仕方あまりにもかっこよすぎる、、ああーーーかっこいい!!!!!かっこよ!!!!!!

「ここに残してはいけない」「ならば手を貸そう」ううううイケオジ…ごめんこんな語彙でしかすばらしさをあらわせなくて…イケオジ…かっこいいよおおかっこいい、、、

 

pp-42-45

いやこの一連の流れ映画…映画だよ…泣いた…

アニを見てた人影だれなのかな~と思っていたんだけどキースだったんだね。死に時を探していた、か~~~~いや~~~~~死ななくてもよかったんじゃないかなあ~~~~~旧き者が新しき者を助けられる場面ってこれからもたぶんいっぱいあるよ~~~~~と思うけど、彼は自分で自分の死に場所を選ぶことにしたんだね、、、この世界で死に場所を選べるのはかなりしあわせなのでは。自分の意思で自分のいのちに終止符を打てるという意味で。教え子の成長を見て、もう大丈夫だと思ったんだろうか。自分がいなくても大丈夫だと思うほど教え子が成長するというのは、教官としては一番、いちばんうれしいことかもしれない。

 

「世界を救った英雄になるだろう」か。凡人であることが苦しかったキースに、キースがいちばんほしかった言葉をかけたのは敵兵であったマガトなんだね。はっとした顔をしてから目を伏せる。ここ微笑まないんだなあと思った。というか絶妙な顔だよね?!ほほ笑んでいるような、哀愁漂うような。

そして同様に、良心の呵責にさいなまれていたマガトに「俺はあんたを誇りに思う」というマガトのほしかった言葉をかけたのもまた敵兵であったキースか。

 

マガトの「自分の良心に気づいておきながら」が個人的にはめちゃくちゃグッと来ている。というのも、私はマガトがたったの一晩で意見を変えたのをずっと不自然だと思っていたんですが、その不自然さがここで解消されたから。たった一晩で意見を変えることができたのは、彼が「気づいて」いたからなのだ。自分の考えが誤っていることに。

彼がガビに伸ばした手をおろしたのは、気づいて考えを変えたガビに、気づいておきながら考えを変えられていない自分に慰めようもないと思ったからなのだろう。そして彼は自分の考えを変え、謝罪することを選んだ。

 

凝り固まった考えを持つ大人より子供のほうが柔軟なはずだと私は思っているが、その柔軟なはずの子どもであるガビでさえあんなに時間がかかった。でも大人であるマガトが意見を変えるのに要した時間がたったの一晩。その不自然さがきちんと解消されているのが本当に丁寧ですごいなあと思ったのでした。すごい。

 

そして、「あの子達がただ普通に生きることができたら俺は…どんなに嬉しかったか」という言葉の背景のコマにジークが写ってるんだよお~~~~~ああ、、、裏切ったジークでさえ、マガトにとっては「あの子達」に入るんだなと思って切なくなった。彼らの幸せを願うときのマガトの穏やかな目。うう、、、こんな世界じゃ、こんな世界じゃなかったらなあ。

 

最後に二人が名乗り合う場面、武器をお互いに手にとり、調査兵団の兵服を身にまとい、兵士/戦士として死んでいくんだなと思ったらめちゃくちゃ胸があつくなった(語彙が残念すぎる…胸が熱いて…)。キースもマガトも調査兵団服なんですね?!これも私気づかなくってもう……各位の知識に助けられて読みが深まっている……ありがてえ話です

 

名乗り合う場面の吹っ切れたようなすがすがしい顔がいい。それまでの陰鬱とした表情とは打って変わった表情だ。二人の過去を思わせる対話をしたところ、そこで今回のタイトル「懐古」、ということなのかな?ちょっと違うような気もするけど。でも過去のさまざまな伏線を回収していく回だったように思うので、そういう意味では「懐古」ぴったりだったな。はあ…キースが英雄だったことを、こう…なんとかして…誰かが察してくれて後世に残らないかな………も淡く願っちゃうね……

 

最後、ピークとガビが泣いていて、ああ彼らもあなたを誇りに思っていたに違いないと思った。尊敬していたに違いない。 

 

は~~~~~本当にいい回でしたね。記憶に残る回だ。ああ~~~~よかった次回が楽しみです。エレンどこ?リヴァイさんもしゃべるかな?

5パーセントとか言わないで〜

 

 

進撃の巨人って旧き者から新しき者、大人から子どもへの流れがすごく意識されていると思ってるんですね。エレンたちの次の世代がファルコとガビなわけで、ファルコ巨人の鳥フォルムを見たときに、ああやはりファルコが自由の希望、象徴になっていくのだろうかなどと思った。それはそれとして、104期より上の旧き者たちがこれでほとんど死んでいってしまったなあ。残るはハンジとリヴァイくらいか。

 

しかしそれにしてもマジでエレンをどうやって止めるつもりなんだろう。

 

「ハンジがまともなことを言っててキャラ迷走したとか言ってる人は進撃の巨人を読めてない」という趣旨のツイートが回ってきて、まあハンジがわからんわからんと数カ月言ってきた身としては肩身が狭くなったんですけど、よくよく考えると私はハンジが「まともなことを言っててキャラ迷走」とは思ってないんですよね。

 

ハンジが良識のある理知的なひとであることは知っている。でも、だからこそ、ここで「虐殺はだめだ」という倫理を持ち出すのは明らかに「まともではない」と思って困惑したんですよ。

この世界観って倫理が通用しない世界じゃないですか。どんな選択をしても人を殺さなくてはならない。パラディへ全世界が攻め入るか、パラディ以外の全世界を地ならしで殺すかの二択しか状況的にはありえない。人を殺さないで済むならそれがいちばんいい。エレンだってきっとそう思ってると思う。でもエレンはそれが不可能だと思ったから、倫理を踏みにじることを織り込み済みで全世界を滅亡させようとしたのでは、と思うんだよね。そのエレンの思いを倫理で殴るの?という。人を殺すことは、犠牲にすることはこれまでにたくさんしてきたのに。倫理が通用しないということは全員の前提じゃなかったのか、という困惑。倫理が通用しないという前提のもとでは、倫理で殴ることは「まともではない」のである。

これまで選択の連続だった、でもそこに理想論的な倫理を出してくるのは違うのでは、それはこの世界観からして「まともじゃない」のではと思ってハンジのことがわからなくなったのでした。

 

しかし冷静に考えると、ハンジってここまでにあんまり選択をしてきていないように思う。分隊長時代はエルヴィンの選択に従っていた。団長になってからはハンジは何とか第三の選択肢を見つけるべくマーレに渡った。彼女はいつだって既知の選択肢の中から選ぶのではなく、第三の選択肢をギリギリまで探すタイプの人なのではないかと思い、納得した。つまり、彼女はやはり根っからの研究者なのである。betterではなくbestを目指す。そして、bestを目指すあまり現状の選択肢のどちらかを選ぶという行為から遠ざかったので、エレンは彼女の、兵団のそういう姿勢を見限ったのではないか。団長というのはbestを目指す姿勢それ自体がbetterかどうかという視点も必要だが(エルヴィンはこっち)、彼女の根底には人を殺してはいけないという倫理がずっと昔からあって、bestを追い求めるのだろう。それが意外だったかな。人を殺してはいけない、人が死ぬのはいけないという倫理があったなら、エルヴィンに続いて新兵たちが獣の巨人によって大勢死んだときのような、目的のために誰かが死ぬ、(それこそモブリットはハンジのために死んだ)、そういう死と向き合うたび、彼女のこころはどれだけ傷ついたろうかと思ってめちゃくちゃつらくなった。この世界で倫理観を保てるの、すごすぎるだろう。

 

リヴァイがかつてファーランとイザベルの死に慟哭していた姿から、旧リヴァイ班の遺骸を見ても気持ちを押し殺して女型を追う姿に変化していったように、死を多く見るうちに犠牲になる哀しみは感じても、それでも前に進むという目的意識に変わっていくように思う。でもハンジはその目的意識の手前で、そもそも敵味方関係なく人が死んではいけないという倫理を保てていたのであり、それは本当にすごい。読んでいるだけだからだろうが、少なくとも私は死に対する感覚が麻痺した。周りの人がばんばん定期的に死んでいく環境に身をおいたことがないのでよくわからないんですけど、故郷か故郷以外の二択ならば、故郷を守る目的のために人が犠牲になるのは仕方ないと、読んでいるうちに思ってしまった。実際に身をおいたらどう感じるかはわからないけど。

 

ハンジが本当に第三の選択肢を見つけて、パラディもパラディ以外も誰も死ぬことなく終われるのならそれはすばらしいことだ。bestだろう。でもそんなことが可能だろうか?それを可能にする手立てもなく倫理で走っていくのは、やっぱり心配になる。倫理だけでエレンを説得できるはずもない。

 

ジャンがどうやってエレンを止めるのかとハンジに問うたとき、ハンジは怒鳴ってそのジャンの問いをぶった切った。ジャンはマルコを思い出して、ハンジの策を問い詰めることをやめた。あの光景は本当にこわかった。だってあれは要するにジャンもハンジも死者に動かされているということだから。

ハンジは倫理をずっと持っていたが、それは死者への哀悼の気持ちをずっと持っていたからだろう。重く双肩にのしかかる死者の想いに乗せて、なんとか前に前に進もうとしている感じがする。

死人に口なしだと私は思っている。島だけが平和なんてケチなこと言わないだろうとか何とか以前に、そういうことをそもそも死者は言わないと私は思う。死者に語らせるのは無意味だ。

でもハンジはそうではなかった。彼女のなかでは死者がまだ心のなかで生きているのではないか。彼女が倫理を保てていたのは死者に恥じないようにという思いからなのではないか。あのシーンを見て、夥しい数の死者の存在と、戦場にそぐわないほど「まとも」な彼女の倫理観は、たぶん密接にかかわるものだと思った。

 

倫理だけでは走れない。彼女が何かエレンを止める手立てが、そしてその先に世界が攻め込んでくるパラディを救う手立てがあるのなら、それなら私は彼女を支持できる。でもいまのところ倫理だけで第三の選択肢が見当たらない。机上の空論にしか見えない。だから私はこの状況下ではエレンを支持したいなーと思ってます。どちらが良い悪いではない。仕方ないのだ。どうしようもない。だって世界は残酷だからという言葉のとおりだ。

 

しかしな〜〜エルヴィンが生きていたら、ピクシスが生きていたら、と思ってしまうのつらい…

 

 

教養だけではほとんどの人は食っていけないのだから

「ほとんど」と書いたのは、まあ教養を深く深く究めたひとはクイズ王とか教育系youtuberとか身を立てることも可能かなと思ったからだ。

 といっても、クイズ王ならばクイズの専門的技術が必要なことはQuizknockが教えてくれたし、youtuberに専門的技術が必要なことはこのyoutuber戦国時代ではもはや自明である。

 よって、やはりほとんどの人は教養だけでは食っていけない。

 

この記事内での教養の定義は「高校卒業までの学習内容+αがある程度身についている」とする。

高校卒業までの学習内容が完璧ならば理論上どんな大学にも入れるわけで、まあ教養一本で身を立てようなどと思わない限り、高校卒業までの学習内容がある程度身についていれば、少なくとも教養がない部類には入らないだろうと思う。

+αというのは芸術面だ。学校で読む本、触れる音楽や美術作品見る映画には限りがある。文学、音楽、美術、映画をはじめとしたメディアコンテンツは学校教育だけでは足りない。

 

私がこの記事で書きたいのは教養って必要か?という話である。

 

大前提だが、私は学校で勉強しなくていいなどという話をしているわけではない。

勉強は大事だ。自分の選択肢が広がる。また、学校で勉強しているような内容が文明の下支えになっている。私も「三角関数なんて大人になったら絶対勉強しないだろ~~~~」と泣き言を言いながら試験勉強をした経験はあるし、実際高卒以後いまに至るまで三角関数は使わないで生きている。でも私が使うかどうかなんて関係なくて、私の知らないところで三角関数が使われている場面はいっぱいあるんだろうなという想像力は身に着けた。

 

それから、私は教養はなくていいと言いたいわけでもない。あるに越したことはない。だれだってそう言うだろう。

 

でもそもそもなんで、食っていけもしないのに教養って必要なんだろうな。教養があることのメリットってなんだ…ということをずっと考えていた。私がフワフワ考えてたどり着いた結論は以下の通りだ。

 

①世界の解像度があがる

聖書とかギリシア神話の知識を持って西洋絵画を見るのと見ないのとでは楽しめる度合いが異なる。その隙間を埋めるのが美術館における音声ガイドであり、芸術新潮であり、各種ムック本であり、図録であり、専門書であるわけだが、もともと知識があればそれらがなくてもその絵画がどういう場面を切り取ったのかがわかる。これは楽しい。

 

②いろんな分野のひとと話が弾む

ある程度の知識をそれぞれの分野において持っているなら、ある分野について詳しい人と話すときに話が広がる。弾む。良好な人間関係を築ける(?)。話してて面白い(interesting)とは思ってもらえるかもしれない。

 

エセ科学にひっかからない

これはメチャメチャに大事だ。超大事。しぬほど大事。血液クレンジングだの水素水だのマイナスイオンだのいろいろありましたが、ああいうものにひっかからないのは大事。マジで。水素水みたいな毒にも薬にもならないものならまだしも血液クレンジングとかこれ一つで痩せる系サプリはね…はい…体に悪いので…

 

③は大事だ。でもこれと密接にかかわる大事なことは以下のことだ。

 

④馬鹿にされない

これじゃないか??!!?!?!?!?!これだろ!!!!!!!!!!!!!!と思うんですがどうですか?????????

 

はっきり言って①は自分が好きな分野の知識は好きに集めりゃいいし、②は聞き上手かつ質問上手でさえあればどんな人とも話は弾みます。逆に知識があったって話が下手ならどうしようもない。③のようなことが起こるから馬鹿にされるわけだし、結局問題はこれだろうと思うんですよ。舐められない。馬鹿にされない。

まあ、③についてはリテラシーの問題でもあると思うので(教養があればエセ科学にはひっかからないが、教養がなければ必ず引っかかるものではない。なぜなら調べれば簡単にそれは危ないですよという注意喚起が出てくるからだ)ちょっと以下では脇に置いておきます。いわゆる芸術に造詣が深いとか、教養が必要な風刺やジョークが通じるとかそういうレベルの話をする。

 

あのですね、なんでこの記事を書き始めたかと言うと、先日検事総長の話題が盛り上がった際「政治なんて知らないくせに乗っかっちゃって」などという意見が結構見られたからだ。歌手だから知らないと思いますがなどというとんでもない発言まで見た。失礼すぎる。

 

それとこれとがどう関係するか?

つまりねえ、「知っている(側の人間だと自分を思っている)人」は「知らない人」を馬鹿にしたがる、ということです。

知らないことに厳しい、無知を責めるというひとは割といる。そういう人の気が知れない。政治について無知を責める人を見て、何年か前、教養がない人を馬鹿にした知人にモヤついたな~と思いだしたのである。何年か前の怒りでよくこんなブログ書けるよなと思った?わかるなあ。私はその場で発散できないと、かなり根に持つタイプだ。

 

私は知識があることはまったくもってエライことではないと思っている。例外なく、誰もが、知らない状態から知っている状態に移行している。ということは、誰もがどこかで知識を得たということであり、その「どこか」さえわかれば、どんな人間も同じ知識を手に入れられるということだからだ。

要はある知識を○○というタイトルの本から得た人がいれば、○○を読めば同じように手に入る。所詮、先に得たか後に得たかの違いに過ぎない。

このごろはもう既に「ちょっと先に生まれたからってエライわけじゃない」という意識はしっかり広まっていると思いますが(いわゆる「老害」みたいな語はそれを示すと思う)、なぜちょっと先に知ったことがそんなにエライと思うのか。理解に苦しむ。

 

知らない人を馬鹿にする人は「そんなことも知らないの?」という言葉をよく使うが、あれはもう本当に…ひどい言葉だ。知らない相手を委縮させ、知っている自分を優位に立たせて何が楽しいんだろう。自分も最初は知らない側だったくせに。

 

 

教養を「高校卒業までの学習内容+α」と定義したので、考えられる反論としては、+αはともかくとして、高校卒業までの内容なら自分で勉強できただろ、それをしなかったのは怠慢だ、というものがありそうだ。

 

そういうひとは何か勘違いをしている。

 

教養を上記のように定義づけたので、こういう類の教養を持っている人は必然的に学力が高い。学力というのは努力して得るものだと多くの人が思っている。まあある一面に関してはそうだ。もちろん自分の努力がなければ、知ろうとしなければ、問題を解いて定着させなければ、学力は上がらない。

 

しかしそういうひとは恐らく東大の入学式の上野千鶴子の祝辞(

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

の意味をまったく理解していない。自身の努力以前に環境が恵まれていることに自覚しろ、そしてここまで頑張ってきたその頑張りを恵まれない人々のために役立てよというのが私の要約ですが、名文なのでぜひ読んでください。

彼女はフェミニストであり、前半の内容からしてもこれは男女の環境差の話をしているのはと当然の話なのだが、そもそも東大にきている時点で東大の女子学生は日本全体の「女性が大学に行くなんて」と言われるような家庭に比べればはるかに恵まれた学習環境にあったことは確かであり、これは環境に恵まれた人にそれを自覚せよと言っているともいえるわけだ。男女かかわりなく。

 

教養は「知らない」を「知っている」に変える営みを繰り返すことでつくられる。そしてそれは誰にでもできるだろうと(無知を馬鹿にするひとは特に)思いがちだ(確かに私は「どこから知ったか」を知り、同じ道をたどれば同じ知識を得られるといった。これは誰でもできることだ。やろうと思えば)。

しかしそもそもその「知らない」を「知っている」に変えるという、「やろうと思える」学習意欲を育てる環境が全員にあると思ってるのか?ということだ。凄惨な事件の報道をかならず見たことがあるはずなのに。その報道の陰に無数の恵まれぬ子どもたちがいることくらいわかるはずなのに。

 

休みの日には親が美術館に連れていったり、クラシックのコンサートに連れていったり、本が欲しいと言えば何冊でも買ってくれて、塾に通わせてくれて、ライバルと切磋琢磨し、高等教育を受けさせてくれたりした。そんな人が、「誰だって知ろうと思えば知れるでしょ、学校の内容くらいちゃんとやりなよ」なんてね、言うのは簡単だ。

でも、「学習意欲」が一生の宝物であることに気づかず、誰もが持っているものだと思い、自身の環境の恵まれ方にも気づかないなんて、何のための教養なのかと思う。見識が狭くても教養だけは持っている?そんな教養、無用の長物も甚だしい。

 

教養がなくても昨日も明日も明後日も生命維持ができる。酸素を吸って二酸化炭素を吐くことに教養は必要ない。「豊かな人生が送れる」? 「豊かな人生」かどうかは本人が決めることだ。私は世界の解像度があがれば楽しいと先ほど言ったが、「世界の解像度があがると楽しい」と思うのは私の価値観だ。解像度なんて別に上げる必要なんてない。上げたいと思う人が上げればいい。無理せず楽しく生きるのがいちばんだ。

 

残念ながら無知を馬鹿にする人間はたくさんいる。だから、「馬鹿にされないために」教養はあったほうがいい。実に哀しい結論だ。

 

でも本当は、知っている人間が馬鹿にしない世界があればいいのだ。「そんなことも知らないの?」ではなく「ああ、それはね~」と教えるやさしさを持てたらいい。

私は「それってどういうこと?」と聞かれるのが大好きだ。「とるころーるに聞いてもバカにしないだろう、教えてくれるだろう」という信頼感がたまらなくうれしいからだ。

でも「聞いてくれてありがとう」はおかしい。「知らない」と「知っている」の間に溝があることを前提にした言葉だ。子ども相手なら「ちゃんと聞けてえらいね」はいいだろうが、成人にそのように言うのは馬鹿にしている。絶対に言ってはいけない。確かに「私に」聞いてくれたことはうれしい。でも知らないから聞くのは当たり前のことのはずなのだ、本来。当たり前を当たり前に実行できるひとがとてつもなく尊い。だから私は普通に答える。

 

そして私もまた、知らないことは知らないと言うことを心掛けている。私は自分に知らないことがたくさんあることを知っている。私は決して「知っている」側の人間ではない。

 

私が知らない人を馬鹿にしないのは、長々書いてきた以上のことが理由であるとともに、自分も知らないことを馬鹿にされずに聞きたいからだ。お互いの知らないことを、お互いの知っていることで対等に補い合いたいからだ。

 

知らないことは恥ずかしくない。ありふれた言葉だ。

聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。よく聞く言葉だ。

でもこんな言い回しが、ことわざがあるのは、それと反することをついつい人間はやってしまうのであり、そうしたことを戒めるためだ。現実はしばしばこうした内容から乖離するからだ。

 

いつかこの言葉が、あまりにも当たり前すぎて、朽ちて忘れられるような世の中になりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

一貫性

 

矛盾というものがとにかく好きで、人間らしさをかたちづくるひとつの要素だと思っている。嫌だと思うのについつい見てしまうとか、死にたいと思っているのに少し残った野菜が勿体無いと思ってしまうとか、やるべきだと思っているのにやれないとか、昨日言っていたことと今日言っていることが180度違うとか。非合理な行動の数々。

 

一貫性が是とされる世界ももちろんあるだろう。科学とか数学とか法律とか。昨日勉強した公式が今日間違ってるなんてことがあったらたまらない。でも、だからといってあらゆる分野において一貫性がうつくしいということでもないし、一貫性を持ち合わせていれば完璧というものでもない。というか、正確には、絶対的に正しく一貫性を貫けたらそれはたしかに完璧そのものだが、絶対的な正しさがひどく難しいものである以上は、一貫性を貫くことは不完全なことが多いのだ。だから、(あらゆる分野において)一貫性を尊ぶのは、ありえないものを夢見て「あれっていいよね」って言っているのと同じことだ。というか、科学も数学も法律も、時代とともに、新たな発見とともに徐々に変わっていく。だからまあ、別にそこにも本当は一貫性なんてない。なくていい。

 

そもそも、絶対的な正しさなんて、たぶんこの多様性の社会ではないのだろうし。あったとしても、それは人間の都合だ。私は中学のとき、犬や猫が動物愛護法で守られ、法を破ったものは罰されるのに、蟻の巣を水攻めにしても(モラルには反するけど)、「ちっちゃいころやったよね〜笑」程度で済まされるのがよくわからなかった。その線引きがわからない。犬や猫を飼っているひとたちは、蟻にも同じだけの愛を捧げるのだろうか?なかにはそういう人もいるかもしれないが、まったく同じと言い切れる人はそう多くないような気もする。結局その線引きは人間との距離の近さに起因するのだろう。別に批判じゃない。博愛主義なんて人間には1000年くらいたぶん早い。

なんなら、人間との距離の近さということで言えば、殺人でさえどうしてやってはいけないのかわからなかった。いや、そりゃ人間界ではやっちゃいけないんだけど、別に人間が滅びようがなんだろうが動物一般にとっては関係ないし。遺族が悲しむからとかそういう感情的な話は、人間がたまたま意思を持つ動物だったから生まれる理由付けに過ぎないし。自然界で共食い禁止なんてルールはあるんだろうか。動物の行動について勉強したことないけど、共食いしたら、食った側は食われた側の親族とか(?)によって罰されたりするのかな。しなさそう。してたとしたら、そこにも「社会」があるんだな。よくわかんないけど、まあ、たぶん、人間社会を維持するために、特別ルールのなかに「殺人を犯してはいけない」という規定を作ったんだろう、という何とも当たり前すぎる結論にたどりついた。たぶん私は馬鹿なのだ。こんな当たり前のことも飲み込めずに14の頃うじうじと考え込んで、普通の結論にたどり着くのだから。あまりにも当たり前すぎて笑ってしまう。

 

話が逸れた。

 

なんの話かというと、一貫性ほど脆いものはないという話。で、なんでそんな話をしてるかというと、最近「一貫性がない人間」がやらかした場合、徹底的に「やらかしてしまう」ために、徹底的に叩かれるなあ、とぼんやり思ったからだ。インターネットの普及、SNSの拡散力の弊害である。

 

インターネットでは扇情的な意見表明はすぐに拡散されてしまう。拡散されたあと、昨日言ってたことは間違ってましたごめんなさい、では済まされないことが多い。事実に関する言明が「実は間違ってました」ではたしかに済まされない。トイレットペーパーがなくなっているだなんて、本当に迷惑だ。事実はちゃんと調べてから発表してほしい。

 

でも、「意見」とか「ローカルルール」とかにも最近厳しいような気がするのだ。それくらい知っとけ、はもちろんそうなんだけど。人間だから知らないことだってあるし、優しく教えて(その場のルール上の)間違いを正すことを、あるいは指摘されて自分が正しさに近づくことを、諦めたくない。

インターネットは簡単に過去の意見まで遡れるから、「○年前にこう言ってましたけど?一貫性がない!」みたいな話はちゃんちゃらおかしい。その数年の間にひとは成長し、反省したり学んだりしながら意見を変える。当たり前だ。一貫性のなさは、言い換えれば、直すことのできる勇気だ。一貫性がなくたって、昨日と言うことが違ったって、たまたま昨日から今日までの間に学び、修正したのだから仕方ない。

 

でもこの、「間違っていたで済まされない」か「済まされる」かの線引きも正直よくわからない。事実誤認を殊更に煽り立てるのは「間違っていたで済まされない」だろうが、あまりに事実を重視するあまり、迅速さが失われては元も子もない、という場面もあるしな…と思うのだ。あるいは、転売は絶対にだめだが、無断転載をしているという人々をよく見るのだ(どっちもだめです)。所詮、その線引きも各々の心のなかの個人的なルールに過ぎないし、曖昧なものなんだよなあ、と、今日も正しさがわからないまま、思考を終える。

 

 

鬼滅の刃 187話

Twitterにも書いたんですけど備忘録用にこちらにも残しておきます。

 

巌勝は、縁壱がいっそ悪人だったらよかったんだろうなと思うけど、あくまで縁壱は兄が鬼になったあとも優しい兄上、なんだね?

長男信仰、家父長制の重圧に耐えている自分よりも才能があって、でももっと自由で自分にないものを全部手に入れたように弟が見えている巌勝が、苦しんでどうしようもなくて絶望して鬼になったことを、なぜ鬼になったのかを、その縁壱は知ってたんだろうか。

 

知らなかったとしたら、本当に巌勝が「おいたわしい」。最期の最期まで巌勝の弱さは、ついぞ縁壱に明かされることはなかったことになる。自分の醜さも弱さも、ただひとり、巌勝だけがすべて抱えて生きながらえる地獄に取り残されたことになる。

知っていたのなら、ある意味そのほうが救いだ。縁壱と巌勝が互いを見ているからだ。縁壱の「優しい兄上」というのは、巌勝の一面であって、すべてではなく、だから、互いを見ていることにはならない…と私は思う。もし縁壱が巌勝の弱さを知ったなら、そのときこそ互いを見たことになるんだな、と思う。
縁壱は妻子を殺した鬼という存在を憎んでいたに違いない。でも、その鬼になってしまった巌勝を、鬼に追いやったのが自分だというのは苦しい。悔いたかもしれない。あるいは笛を肌見放さず持つ愛情を胸に抱えながら、巌勝を殺して救ってあげようとしたのかな…どちらにせよ苦しい。


そして、私たちは知っている。片割れが鬼になったりなりかけたりした兄弟を、ほかにも。
彼らと継国兄弟の何が違うかというと、兄の弱さなのだと思う。
何というか鬼滅の兄弟姉妹間における、下の子から上の子への憧憬、上の子から下の子への責任感はかなり色濃いな…と思う。憧憬というのは強い分だけ向けられた側はプレッシャーになることもあるだろう。下の子のほうが優秀なら、なおのことその憧憬は重い。

ただ、巌勝がどうしようもなく弱かったかといえばそうではない。むしろ他の兄弟姉妹の上の子たちがあまりにも強く、あまりにもかっこよく、あまりにも「上の子然」としていただけなのだ。

巌勝は、本当に普通だった。普通だったのだ。でも縁壱にとっては、彼にとって兄は「普通」「ただのひと」に収まらぬ、「優しい兄上」なのだ。普通であることが弟にさえわからない。弟の憧憬がここにもある。でも兄がそれを受け止められなかった。家父長制が色濃く残る時代、兄に「普通」は許されなかった。弟にさえも。

そういう意味では、不死川兄弟が向き合えたのは、玄弥が弟だったからなのではとも思う。兄にどれだけ疎まれ罵られようと、鬼にさえなりかけようと、呼吸ができなかろうと、才がないと言われようと、謝りたくて、兄と話すために柱になりたくて、素直にまっすぐに兄と向かい合おうとした。向かい合った。諦めなかった。鬼殺隊として呼吸ができなくて才能がないのだ、と言いつつ、兄に対するとき、「兄としての重圧」が弟にはない。自由なのだ。

玄弥は、最期に「守ってくれてありがとう」と言う。やはり兄は「弟を守るべき存在」なのだ。重い言葉だ。そしてその重圧を自身への重圧と思わない、兄として当たり前のことだと思っている強い実弥は、「守れなかった」自分を悔いるのだ。神にさえ祈っても、救えなかった、弟のいのちを。

巌勝が普通であることが苦しい。個人的には、鬼になった経緯を縁壱が知っていたかどうかが死ぬほど気になりますが、描かれるかなあ。描かれない、という選択がなされたとしたら、その筋もまた苦しいね、そのぶんだけ巌勝の思いは伝わっていなかった、ということなので。